黄帝内経太素Ⅲ
- yokando2
- 2023年7月29日
- 読了時間: 86分
2022-03-31
【黄帝内経太素16-1 虚実脈診】
脈盛で皮熱、腹脹で小便・大便不通で悶瞀(ぼんぼう)するを五実、脈細で皮寒、気少、小便・大便洩注利、飲食のとれないのを五虚という。奬粥(しょうしゅく)が胃に入り洩注が止まれば虚者は生き、身に汗が出て大便が出れば実者は活かせる。
気実で形実、気虚で形虚が常、これに反するは病。穀盛で気盛、穀虚で気虚が常、これに反するは病、脈実で血実、脈虚で血虚が常、これに反するは病。
気虚で身熱、穀入で気少、穀入らぬのに気多、脈盛で血少、脈少で血多、これらを反という。気盛なのに身寒するは病を傷寒に得たのであり、気虚なのに身熱するは病を傷暑に得たのである。穀多、気少は脱血して湿下に居たために病を得たのである。穀入少で気多は邪が胃と肺にある。脈少、血多は飲の中熱である。脈大、血少は脈に風気があり水奬が入らないのである。
そもそも、実とは気入、虚とは気出であり、地実は熱、地虚は寒であるから、実は右手で刺して左手で針空を開き、虚は右手で刺して左手で針空を閉じる。
邪気の盛を実、精気の脱を虚という。重実は大熱病の気熱・脈満をいう。経・絡が皆実は絡(=寸口)急で尺緩の場合であり、瀉せば治る。経・絡皆実の場合、脈滑は順で治りやすく、脈濇は逆で治りにくい。そもそも、虚実はその物類によって始終するもので、五蔵・骨肉が滑利であれば長生できる。寒気が暴上して実した場合、滑なれば順で生き、濇なれば逆で死である。形がことごとく満で脈が急・大・堅で尺が満に応じない場合、手足が温であれば順で生き、手足が寒であれば逆で死である。
乳飲み子の病熱で脈が懸・小の場合、足が温だと生き、寒だと死である。乳飲み子の中風による病熱で喘鳴・肩息し脈が実・大の場合、脈が緩であれば生き、急であれば死である。
重虚は脈気虚、尺虚をいう。気虚は言葉が常でなく、尺虚は歩行が正しくなく、脈虚は陰の象がない。この場合、滑は生き、濇は死である。腸辟で血便する場合、身熱すれば死、寒なれば生である。腸辟で白沫を下す場合、脈が沈であれば生き、浮であれば死である。腸辟で膿血を下す場合、脈が懸・絶であれば死、滑・大であれば生である。腸辟の病で身熱がない場合、脈が懸・絶でなく滑・大であれば皆生き、懸・絶であれば皆死である。蔵をもって予後を判断するのである。
癲疾の場合、脈の搏・大・滑はしばらくすると自ずから治り、脈の小・堅・急は死で不治である。虚は治すことができ、実は死である。
消癉の場合、脈が実・大であればしばらくすれば治り、脈が懸・小・堅であればしばらくしても治らない。
気虚とは肺虚のことであり、気逆・足寒がなければ生き、そうであると死である。脈が実・満で手足が冷え頭が熱する場合、春夏ならば生き、冬夏ならば死である。
2022-04-07
【黄帝内経太素16-2 雑診】
診法は早朝に行うべきである。陰気がまだ動かず陽気がまだ散じておらず、飲食はまだ通ってなく、経脈はまだ盛んでなく、絡脈は調均し、気血はまだ乱れていない、すなわち診をなすべきである。寸口を過ぎる脈の動・静を切し、面部の五色を精明に察して、五蔵の輸の有余・不足、五府の強弱、身形の盛衰を観て、これらを参考にして死・生の分別を決する。
脈は血の府であり、長であると気が治まっており、短であると気が病んでおり、数は煩心であり、大は病が進み、上盛(人迎の脈)は気高、下盛(寸口の脈)は気脹、代は気衰、滑は気少、濇は心痛であり、渾々と弾至し湧泉の如きは病が進み、しかも絶、弊々綽々として去ること弦の絶するが如きは死である。
五色を精明にするとは気の華を見ることであり、赤は白絹で朱を包んだ如きがよく、赤土の如きはよくない。白は白壁の沢の如きがよく、白土の如きはよくない。あるいは、白は鵞羽の如きがよく、塩の如きはよくない。黄は薄絹で鶏冠石を包んだ如きがよく、黄土の如きはよくない。黒は重漆の如きがよく、炭の如き、あるいは地の如きはよくない。青は青壁の沢の如きはよく、藍の如きはよくない。五色の精の微象が現れると寿命は長くない。精明とは万物を視て白黒を別け短長を審らかにする所以であり、長が短となり、白が黒となっているのは精が衰えているためである。
五蔵とは中の府である。中に気が盛満するとき恐に傷つくと、音声が室内から出ているようになり、これは中気の湿(が胸・嗌に上衝する)によるものである。言が微かで終日復言するのは脱気のためである。衣服が整わず、言語の善悪が親疎を避けられないのは神明の乱れである。倉廩の不蔵(で下痢するの)は、門戸の不要のためである。小便が止まらないのは、膀胱の不蔵のためである。守を得れば生、守を失すれば死である。
五蔵は身の強であり、頭は精明の府であり、頭が病んで深く視つめるのは精が将に奪(ぬ)けようとしているからである。背は胸の府であり、背が曲がり肩が随うのは府が将に壊れようとしているのである。腰は腎の府であり、転揺不能なのは腎が将に病んでいる。膝は筋の府であり、屈伸不能で前屈みになるのは筋が将に病んでいる。髄は骨の府であり、久立不能で震え慄くのは骨が将に病んでいるのである。強を得れば生、強を失すれば死である。
四時に反するも有余は精であり、不足は消であり、太過なるべきに不足してくれば精であり、有余であれば消となる。陰陽が不相応である病を関格という。
血脈を診るに、赤が多いのは熱が多く、青が多いのは痛みが多く、黒が多いのは久痹であり、赤が多く黒が多く青も多く皆現れているのは寒熱で身痛しており、面色が微黄で歯垢が黄、爪甲上も黄なのは黄疸である。
目痛を診るに、赤脈が上より下っているのは太陽病であり、下より上るのは陽明病であり、外より内に走るのは少陽病である。寒熱を診るに、赤脈が上より瞳子に下至し、一脈が現れていれば一年で死に、一脈半が現れていると一年半で死に、二脈が現れていれば二年で死に、二脈半が現れていると二年半で死に、三脈が現れていれば三年で死ぬ。
齲歯痛を診るに、陽明の脈を按ずると過ぎるところが独り熱し、左にあれば左が熱し、右にあれば右が熱し、上にあれば上が熱し、下にあれば下が熱す。
嬰児の病で頭毛が皆逆上すれば必ず死ぬ。耳間に青脈が起きるのは瘛痛であり、大便に赤・青が混じり飡洩し、小で手足が冷えるのは癒え難く、飡洩し脈が小でも手足の温かいのは癒え易い。懐妊して身が病のようでも邪脈がないと、胎児は生きている。
診で心脈の急を得れば、その病を心疝といい、少腹に形(疝・積)がある。心は牡蔵であり、小腸は使であり、ゆえに少腹に形があるというのである。診で胃脈の急を得れば、実は脹、虚は洩である。風が成ると寒熱になり、癉(腸胃の熱)が成ると消中(乾きが止まらない)になり、厥が成ると癲疾となり、久風は飡洩となり、賊風が成ると癘になる。
厥を病む者がいて、右脈が沈で左脈は沈でない場合、冬における診では右脈は沈・緊であれば四時に応じており、左が浮・遅であれば四時に逆しており、左が当に病を主っている。腎にあるべきなのに肺にあり、当然腰痛すると診る。少陰脈は腎を貫き胃・肓を上り肺に絡す。今、肺脈は得ているが腎に病があり、ゆえに腎が腰痛を起こしているのである。
厥陰の有余は陰痹を病み、不足は熱痹を生じ、滑は狐疝風であり、濇は少腹積・厥気を病んでいる。少陰の有余は皮痹・隠軫(痒みを伴う皮膚病)を病み、不足は腎痹を病み、滑は腎風疝を病み、濇は積・血尿を病む。太陰の有余は肉痹・寒中を病み、不足は脾痹を病み、滑は脾風疝を病み、濇は積を病み、心・腹が時に脹満する。陽明の有余は脈痹を病み、身が時に熱し、不足は心痹を病み、滑は心風疝を病み、濇は積を病み、時によく驚を起こす。太陽の有余は骨痹を病み、身重く、不足は腎痹を病み、滑は腎風疝であり、濇は積を病み、時に癲疾を起こす。少陽の有余は筋痹・脇満を病み、不足は肝痹を病み、滑は肝風疝を病み、濇は積を病み、時に筋急・目痛を起こす。
2022-04-08
【黄帝内経太素16-3 脈論】
三陽が経であり、二陽が維であり、一陽が游部である。これで五蔵の終始が分かる。三陽が表であり、二陰が裏であり、一陰が至絶であって明・晦となる。三陽すなわち太陽が経であり、三陽脈が手太陰に至って弦・浮・不沈であれば病であり、度をもって決し心をもって察せよ。二陽すなわち陽明が手太陰に至って弦・沈・急・不鼓で熱が出れば死である。一陽すなわち少陽が手太陰に至り上って人迎に連なり弦・急・懸・不絶であれば少陽の病であり、専陰なれば死す。これら六脈は、寸口に現れるときは乍ち陽となり乍ち陰となり、六属が相合わさり五蔵を通って陰陽を合する。先に至るのが主で、後に至るのが客である。
三陽を父といい、二陽を衛といい、一陽を紀といい、三陰を母といい、二陰を雌といい、一陰を独使という。二陽・一陰の場合、陽明が病を主っても一陰に勝てずに蠕動し、九竅は皆沈となる。三陽・一陰の場合、太陽が一陰勝てずに内では五蔵が乱れ外では驚駭を起こす。二陰一陽の場合、病は肺にあり、少陰の沈が肺に勝ち脾を傷つけ、外で四肢を傷つける。二陰二陽が皆交わる場合、病は腎にあり、罵詈妄行し癲疾となる。狂陰という。二陰一陽の場合、病は腎より出て陽気が心管の下に客游し、空竅が滞り閉塞して不通となり四肢が別離する。一陰一陽の場合、代・絶する。これは陰気が心に至り上下するに常なく、出入も分らずに喉嗌が乾燥するからである。病は土の脾にある。二陽三陰の場合、至陰は皆陰にあって陽を通ることなく、陽気も陰に止まることができず、陰陽が並絶する。浮は血瘕、沈は膿腐である。陰陽が皆壮であるので下る。陰陽の解に上合すれば昭昭とし、下合すれば冥冥とし、死生の期を診結するには次第に随い歳年に合せよ。
雷公:ここに病人があり、頭痛・筋攣・骨重し、怯然として少気し、噫噦・腹満し時に驚を起こし臥を好まない。これは何蔵から発したのでしょうか? 脈は浮・弦であり、切すれば石・堅で、その訳が分かりません。
黄帝:『従容』にいう、「年長はその府に求め、年少は経に求め、年壮は蔵に求めよ」と。今、汝の言うところ、皆それは八風の積熱により五蔵が消耗し、邪を伝えて相受ける場合である。その浮・弦は腎の不足であり、沈・石は腎気の内着であり、怯然として少気する、これは水道が得られなく形気が尽きたためであり、咳を出し煩悗する、これは腎気の逆であり、一人の気の病が一蔵にあるのみである。
雷公:ここに病人があり、四肢懈惰・喘咳・血洩しており、私の診では傷肺だと思い、切脈すると浮・大・緊で、あえて治療しませんでした。ところが、粗医が砭石を下すと病は癒え、出血が止むと身が軽くなったといいます。これはどうしてですか?
黄帝:聖人は経を墨守せずに変化に応じて当ることもある。粗医もたまたま当たることがある。怪しむに足りない。今、その脈が浮・大・虚とは脾気の外絶であり、胃から去って外の陽明に行ったためである。二火は三水に勝てない。これが脈を乱して常を逸したのである。四肢の懈惰、これは脾精の脱出のためであり、喘咳するのは水気が陽明に集ったためであり、血洩するのは脈が急で血の廻る所を失ったからである。傷肺と思ったのは誤りじゃ。そもそも傷肺の場合は脾気が守られずに胃気は軽からず、精気は働かずに真蔵は壊決し、脈が傍絶し、五蔵が漏洩するので衄のないときは嘔血する。これら二者は同類ではない。
2022-04-09
【黄帝内経太素17-? ??】
心の合は脈、その栄は色、その主は腎である。
肺の合は皮、その栄は毛、その主は心である。
肝の合は筋、その栄は爪、その主は肺である。
脾の合は肉、その栄は脣、その主は肝である。
腎の合は骨、その栄は髪、その主は脾である。
ゆえに、多く鹹を食すと脈が涘泣して色が変わり、多く苦を食すと皮が枯れて毛が抜け、多く辛を食すと筋がひきつり爪が枯れ、多く酸を食すと肉に皺がより唇がまくれ、多く甘を食すと骨が痛んで髪が落ちる。
心は苦を欲しがり、肺は辛を欲しがり、肝は酸を欲しがり、脾は甘を欲しがり、腎は鹹を欲しがる。
顔色に草滋の如き青が現れると死であり、枳実の如き黄は死であり、煤の如き黒は死であり、凝血の如き赤は死であり、枯骨の如き白は死である。
青が翠羽の如きは生であり、黒が烏羽の如きは生であり、赤が鶏冠の如きは生であり、黄が蟹腹の如きは生であり、白が豚膏の如きは生である。
心に生じると縞で朱を裹(つつ)むが如く、肺に生じると縞で紅を裹むが如く、肝に生じると縞で紺を裹むが如く、脾に生じると縞で栝楼を裹むが如く、腎に生じると縞で紫を裹むが如きは、五蔵より所生した栄であり、無病の平人の色である。
味が五蔵に当ると、白は皮に当り、赤は脈に当り、黄は肉に当り、青は筋に当り、黒は骨に当る。
諸脈は皆目に属し、諸髄は皆脳に属し、諸筋は皆肝に属し、諸血は皆心に属し、諸気は皆肺に属す。これらは四肢・八谿(手足の八関節)を朝夕往来する。
臥して身の覆いがなくなると風が吹き、血が膚に積もると痹を起こし、脈に積もると渋を起こし、足に積もると厥を起こす。血行がその元の空に帰ることができずに厥・痹となる。
人には大谷が12分、小谿が354名、小が12関ある。これらは皆衛気の留止する所であり、邪気の客する所でもある。よって針によって去れ。
目の色が赤いと病は心にあり、白いと肺にあり、青いと肝にあり、黄だと脾にあり、黒いと腎にあり、黄色で言いようのないのは病が胸中にある。
2022-04-10
【黄帝内経太素19-1 知古今】
上古(伏羲以前)に聖人は湯液・醪醴(ろうれい)を作ったが服用することはなかった(呼吸を四時に合し、嗜欲に心を乱すことなく、憂患に性を傷つけることなく、精神は越(と)ばず志意は散らず、栄衛は行通し腠理は緻密にして、神は清く性は明らかで、邪気が入りようがなかったからである)。
中古(伏羲以後)では徳がやや衰え、邪気が時に至るも湯液・醪醴を服用すれば万全であった。
当今(黄帝の時代)では良薬・毒薬で中を攻め、鍼・艾で外を治しても効き目がない。これは、精神が越(と)び志意が散り、視欲は無窮で憂患は止まず、精気は弛壊し営は渋り衛は除かれ、神が去って、神が働かなくなってしまったからである。
2022-04-11
【黄帝内経太素19-2 知要道】
九針は之より小は内になく、之より大は外になく、深さで下になるはなく、高さで蓋になるはなく、恍惚として窮みなく、流溢して極みなく、それが天道・人事・四時に合する。
そもそも、治国はそれ唯道あるのみ、道にあらずんば何ぞ小大・深浅を雑合して一たりえようか。日月の明はその彰を失わず、水鏡はその形を失わず、鼓響は応えるにその声に後れることがない。治めれば動揺・応和し尽くしその情が得られる。
照照の明は覆うべくもなく、陰陽を失わぬ。合して察し、切して験し、見て得るときは、清水・明鏡のごとく形を失わぬ。五音が彰(あき)らかでなく五色が明らかでなければ、五蔵は波蕩する。外内が相襲し、鼓が桴(ばち)に応じ、響きが声に応じ、影が形に似るがごときでなければならぬ。遠とは外を司り内を揣(はか)ることであり、近とは内を司り外を揣ることである。これを陰陽の極、天地の蓋という。
2022-04-12
【黄帝内経太素19-3 知方地】
黄帝が岐伯に問うて言った「医の治病たるや、一つの病を治すのに各々同じでなくとも治るのは何故か?」
岐伯が答えて言った「地勢のしからしめるところでがざいます。ゆえに、
東方の域は天地の法として万物の始生する方向にあり、魚塩の地、浜海の水の傍らにあり、その民は魚を食して鹹(しおからい)ものを嗜(この)み、その処に安んじてその食を美味としています。魚は人に熱中を起こし、塩は血に勝ち(五行相克の関係で黒である水が赤である火を克し)、その民は黒色疏理であります。その病は皆癕瘡を作るため、その治は砭石(へんせき)が宜しく、ゆえに砭石(石を用いた療法)は東方より来たはずであります。
西方は金玉の域、砂石の処、天地の収引する所であり、その民は陵居し、風多く、水土は剛強、その民は衣を着ずに畳篇(ちょうへん、毛織物のこと?)を身につけ、搾食して脂肥であります。ゆえに邪はその形体を傷つけることができず、その病は皆内より生ずるものであります。その治は毒薬(=湯液)が宜しく、ゆえに毒薬は西方より来たはずであります。
北方は天地の閉蔵する所の域で、その地は高く、陵居は風寒氷凍、その民は野処にやすらいで乳食しています。蔵が冷えて病を生ずるため、その治は灸焫(きゅうぜつ)が宜しく、ゆえに灸焫(=お灸)は北方より来たはずであります。
南方は天地が養長する所、陽気の盛んな処で、その地は汚下して水土は弱く霧露が聚(あつま)る所であり、その民は酸を嗜んで腑(=腐)を食します。その民は緻理で色が赤く、その病は攣痹、その治は微針が宜しく、ゆえに九針(=鍼)は南方から来たはずであります。
中央はその地が平らで湿であり、天地の所生する食物の種類が多く、その民は雑を食して労することはありません。その病は痿厥・寒熱が多く、その治は導引・按撟が宜しく、ゆえに按撟(=按摩)は中央より出たはずであります。
ゆえに、聖人は雑合して治に各々その宜しき所を得るのであり、治を異にしてしかも病が癒るのは、病の情をつかみ病の大体を知っているからであります。」
2022-04-13
【黄帝内経太素19-4 知形志所宜】
形楽・志苦は病を脈に生ず。之を治するに灸・刺を以てす。
形苦・志楽は病を筋に生ず。之を治するに熨・引を以てす。
形楽・志楽は病を肉に生ず。之を治するに針・石を以てす。
形苦・志苦は病を咽において生じ喝を起こす。之を治するに薬を以てす。
形しばしば驚恐すると筋脈不通となり病は不仁を生ず。之を治するに按摩・醪薬を以てす。
これらを五形という。
陽明を刺すには血と気を出せ。
太陽を刺すには血と悪気を出せ。
少陽を刺すには気と悪血を出せ。
太陰を刺すには血と気を出せ。
厥陰を刺すには血と悪気を出せ。
少陰を刺すには気と悪血を出せ。
陽明は多血・気、太陽は多血・少気、少陽は多気・少血、太陰は多血・気、厥陰は多血・少気、少陰は多気・少血である。
足の陽明と太陰は表・裏であり、少陽と厥陰は表・裏であり、太陽と少陰は表・裏である。
手の陽明と太陰は表・裏であり、少陽と心主は表・裏であり、太陽と少陰は表・裏である。
治病には必ず先にその血を去ってその苦しむ所を去り、欲する所を伺い(その虚実を知り)、然る後に有余を瀉し不足を補せ。
2022-04-14
【黄帝内経太素19-5 知祝由】
黄帝:古の治病は唯それが精移り気変るため祝由(しゅうゆう=祈祷)するのみでよかった。今世の治病たるや、毒薬でその内を治し針・石でその外を治しても癒えたり癒えなかったりするのは何故か?
岐伯:往古の民は禽獣の間に居り、動作して寒を避け陰居して暑を避け、内に眷慕(=思い悩み)の累(かかわり)がなく外には申宦(=立身出世)への形(とらわれ)もなく、これこそ恬淡の世、邪も深入することはできません。故に毒薬でその内を治すことなく、針・石でその外を治せずとも、精を移す祝由のみでよいのであります。当今の世では然ることなく、憂患はその内を琢(けず)り、苦形して外を傷つけ、また四時の逆順、寒暑の宜しきを失い、賊風はしばしば至り、陰の虚邪は朝夕、内は五蔵・骨髄に至り外は空竅・肌膚を傷つけます。故に小病も必ず甚だしく、大病は必死となり、祝由では癒すことはできません。
黄帝:善し。
2022-04-15
【黄帝内経太素19-6 知針石】
針に五法あり。一に神を治し、二に養身を治し、三に毒薬を知りその善し悪しを思い、四に砭石の大小を制し、五に輸蔵の血気を知るをいう。
刺の真とは先ず神を治すことであり、五蔵すでに定まり九候すでに備わればその後で針をする。衆脈が見えなくなり、衆凶が聞こえなくなれば、外内が相得たのであり、形の善し悪しのみで判断してはならない。動かして往来すれば施術を開始する。人には虚実があり、五虚であれば近づいて瀉してはならず、五実であれば遠ざけて瀉さないでおくべきではない。その気が至れば機を失することなく、手にて専心に針を動かし、意を静め義を視て変動を察知し、適中を得るようにする。
虚を刺せばその実するを待ち、実を瀉せばその虚するを待ち、終いには気を至らしめ、慎んで守り、失してはならない。深浅に志をおき、遠近を一の若くにし、形は深淵に臨むが如く、手は虎を握るが如く、神を衆物にとらわれてはならない。
蔵には要害があり、これを察しなければならない。肝は左に生じ、肺は右に蔵し、心は表を部し、腎は裏を治し、脾は使を為し、胃は市を為し、膈肓の上は中に父母が有り、背の七節の傍は中に志心が有り、順であれば福が有り、逆であれば咎が有る。
虚を刺すとき実しめよとは、針下の熱をいう。
満は洩せよとは、針下の寒をいう。
宛陳を除けとは、悪血を出すことをいう。
邪が勝てば虚せとは、針を出して按じてならないことをいう。
徐にして疾なるときは実すとは、ゆっくり針を出してすみやかに按ずることをいう。
疾にして徐なるときは虚すとは、すみやかに針を出してゆっくり按ずることをいう。
虚実とは、寒温の気の多少をいう。
無きが若く有るが若しとは、疾病のあるのが分からないことをいう。
先後を察せよとは、病の相伝する先後を知ることをいう。
虚実をなせとは、医者がその法を守って失してはならないことをいう。
得るが若く失うが若しとは、その法より離れていることをいう。
虚実の要は九針が最妙であるとは、その各々に宜しき所があることをいう。
補瀉の時とは、気と開閉が一致することをいう。
九針の名によりて各々同形でないとは、針官それ自体が補瀉に当ることをいう。
その実を刺してその虚をまてとは、留針し陰気が降り至れば針を去ることをいう。
その虚を刺してその実をまてとは、陽気が降り至り針下が熱すれば針を去ることをいう。
降り至れば慎んで守り失うことなかれとは、変更するなということをいう。
深浅を志におけとは、病の内外を知れということをいう。
遠近は一の如しとは、深浅もその候が等しいことをいう。
形を深淵に臨むが如くにせよとは、あえて堕ちることのないようにせよということをいう。
手は虎を握るが如くせよとは、その壮たるを欲することをいう。
神を衆物にとらわれてはならぬとは、静志して病人を観て左右を視るなということをいう。
義に邪を下らしめることなかれとは、病人を観てその神を自制し気を行(めぐ)りやすくすることをいう。
一天・二地・三人・四時・五音・六律・七星・八風・九野の九つは人体にも応じており、これを九針という。人の皮は天に応じ、人の肉は地に応じ、人の脈は人に応じ、人の筋は時に応じ、人の声は音に応じ、人の陰陽が合気するのは律に応じ、人の歯・面・目は星に応じ、人が気を口から出入させるのは風に応じ、人の九竅・三百六十五絡は野に応じている。故に一針は皮、二針は肉、三針は脈、四針は筋、五針は骨、六針は陰陽を調え、七針は精を益し、八針は風を除き、九針は九竅を通じて三百六十五節の気を除く。
2022-04-16
【黄帝内経太素19-7 知湯薬】
病が始めて生ずるときは、極微・極精で必ず先ず皮膚に舍る。このとき、良医は皆病が成ったと言う。しかし、そのままにしておくと逆となり、針・石でも治療不可となり、良薬でも及ばなくなる。もう遅いのである。疾病を本といい、医方を標という。標・本を得ないと邪気は追い払えない。
病の中には、外邪が豪毛を襲って腠理から入って成るのではなく、五蔵が傷ついて成ることもある。この場合、津液は虚空となり(腎が尽きた)、魂魄は独りとなり(心が尽きた)、精気はあっても呼吸によって外から入る気が少なくなり(肺が尽きた)、形が別となって衣が合わなくなる(脾が尽きた)。以上四つの徴候は急迫して中が動じたためであり、大気が内から病を生じて病形を外に及ぼしたのである。
この場合、すみやかに権衡(蔵府の陰陽二脈)を調え、宛陳(悪血の聚まり)を去れば、邪気は屈服して陰茎が微動し、(汗で)衣が湿って肉と合わさり、鬼門(汗腺?)が開き、静府(心臓?)は静まり、精は次第に増える。五味湯を服すると五気が疎通して五蔵が循り、精は自ずから生まれ形も自ずから盛んとなり、骨肉が相い保ち大気は平となる。
2022-04-17
【黄帝内経太素19-8 知官能】
用針の理において必ず知るべきは、以下の47項目。
1. 形気の所在
2. 左右上下
3. 陰陽表裏
4. 血気の多少
5. 行の逆順
6. 出入の合
7. 誅伐すべき過
8. 解結
9. 補虚・瀉実すべき上下の気
10.髄・血・気・穀の四海を明らかにしてその所在を審らかにせよ
11.寒熱の淋露
12.栄・輸の処
13.調気
14.経隧
15.左右の支絡の会
16.寒と熱が争えばよく合して調えよ
17.虚と実が隣和すれば決して通じしめよ
18.左右の不調は脈診を行い、逆順を明らかにして治すべき
19.陰陽に奇がなければ起きた時を知れ
20.本末を審らかにしてその寒熱を察し、邪の所在、九針の役目を知れ
21.五輸の徐疾の所在
22.屈伸・出入には皆条理ある
23.陰と陽は五行に合している
24.五蔵・六府もまた所蔵あり
25.四時・八風には尽く陰陽があり、その位を得ると明堂(=鼻)の色部に合する
26.色部から五蔵六府を察する
27.五蔵六府、左右上下の痛む所を察する
28.寒・温の経の所在
29.尺の皮膚の寒温・滑渋を審らかにして苦しむ所を知れ
30.膈の上下の気の所在
31.補するには少しずつゆっくり行い、やや深めに留め、徐に動かせ
32.大熱が上にあれば下に押し、下より上がるときは引いて去り、前病が見えるときは常に先に取れ
33.大寒が外にあれば留めて補し、中に入れば合穴より瀉せ
34.針を刺すべきでないときは火が宜しい
35.上気(膻中の気)不足は推して揚げ、下気(腎間の気)不足は積んで従えよ
36.陰陽の虚は火が自ずから当たる。厥で寒が甚だしく骨廉が陥下し寒が膝より過ぎれば、下陵三里と陰絡の過ぎる所を得て留止せよ。寒が中に入れば推して行(めぐ)らす。経の陥下は火が当る
37.結絡の堅緊なるは火で治す
38.苦しむ所が分らなければ両蹻の下を取れ。男は陽、女を陰を取ってはならない
39.上では天の光を視、下では八正(八節の正風)に法って奇邪を除け
40.虚実の二邪と歳露の忌に犯されないようにせよ
41.将来の得失、当今の是非の状を験べ、窈冥を視て無窮に通ぜよ
42.邪気が人に中ると腠理に入り形を動ずるが、正邪が人に中ると微かに色に現れるのみ
43.上工の取気はその萌芽を救い、下工はその已成を守ろうとしてその形を敗(そこな)う
44.気の所在を知ってその門戸を守る
45.調気するには、補瀉の所在、徐疾の意、所取の処を明らかにする
46.瀉には必ず員(えん)を用いよ。切して付けてその気を行らし、疾入・徐出して邪気を出せ。伸ばして迎え、その穴を揺るがして大にすれば邪気が出るのが速い。補には必ず方(ほう)を用いよ。外からその皮を引きその門に当て、左手でその針の動きを制御し、右手でその膚に刺し、微かに捻って徐に押せ。必ず端正にし、安静に心を堅くして解くことなく、微かに留め、気が至れば疾やかに出せ。その皮を押さえてその外門を蓋(と)じ、真気を存(たも)つことが望ましい。
47.神を養うことを忘れるな
官能の人には以下の8種がある。
1. 面部の五行の変色を視る人【明目人】は、その善悪を知る
2. 五音を聴く人【聴耳人】は、その吉凶を知る
3. 応接はやく、弁舌さわやかな人【知弁人】は、人に道を説け
4. 安静、手巧み、心審らかな人【静慧人】は、針・艾を行い、血気を理(おさ)めて諸々の逆順を調え、陰陽を察して諸方を兼ねよ
5. 節緩やか、筋柔らか、心和調する人【調柔人】には、導引・行気なさしめよ
6. 悪口を言って人を軽んずる人【口苦人】は、癕に唾し病に呪せしめる
7. 爪苦く、手毒あり、事をなすに傷つけやすき人【苦手人】は、積を按じ痹を抑える
8. 毒手で亀を按ずれば50日で死に、甘手で按ずれば生きる【甘手人】
2022-04-18
【黄帝内経太素21-1 九針要道】
毒薬を服用することなく、砭石(切開用の石)を用いることなく、微針で経脈を通じ、血気を調え、逆順・出入の会を営ませる法令、それは以下のとおり。
粗(=粗医)は形(=肉体)を守り、工(=良医)は神(=正気)を守る。神と客(=邪気)が門(=腠理)にあれば、その疾は視えにくく、その源は分らない。刺針の微(=微妙)は速遅にあり、粗医は関(=気穴)を守り、良医は機(=機微)を守る。機の動きは空(=気穴)から離れることはない。空中の機は清静にして微を捉え、その来るは迎えず、その往くは追わず。機を知る者は髪をも挂(か)かけさせてはならず、機が知らないのは叩(う)っても発しない。その往来が知(わか)れば期を同じくすればよい。粗の闇かな。妙なるかな、工のみ独り有る。往くは逆、来るは順である。逆順が知れば正行して問題とすることはない。迎えるべきに奪せば虚になり、追い払うべきに済ませば実となる。迎・随は意をもって和すことであり、これが針道の全てである。
用針とは、虚は実し、満は洩し、宛陳は除き、邪が勝てば虚せしめることである。『大要』に曰く、“徐にして疾なれば実し、疾にして徐なれば虚す”と。実と虚は有るが如く無きが如くであり、後と先を察すれば亡きが如く存るが如くであり、虚と実に行なえば得るが如く失するが如くである。虚実の要は九針が最妙であり、補瀉するときは針を用いて行う。
瀉とは、必ず持って入れ、放ちて出し、陽を排して針を出し疾(すみ)やかに気を洩らすことをいう。補とは、按じながら針を引く、これを内温といい、血は散ぜず気は出ない。補は随といい、随の意は忘れたかの如く、行うかの如く悔いるかの如く、蚊虻が止まったかの如く、留まるかの如く還るかの如く、去ること絃が絶れるかの如く、左を右に属さしめるとその気は止まり、外門が閉ざされると中気は実し、必ず留血することなく、急いで取り除く。
針を持つ道は、堅きを実といい、指を正しく直にして針を左右することなく、神を秋豪につけ、意を病につけ、審らかに血脈を視て刺せば殆(あやう)いことはない。
刺すときは、必ず懸陽(=鼻)および両衡(=眉上)を視て、神をつけて去ることなく、病の存亡を知る。血の所在が輸で横居する場合、視るとそこだけが満ちており、切するとそこだけが堅い。
気が脈にあるとき、邪気は上にあり、濁気は中にあり、清気は下にある。ゆえに、陥脈に針をすると邪気は出てゆき、中脈に針をすると濁気が出てゆく。針がはなはだ深いと邪気はかえって沈み、病ははなはだしさを益(ま)す。これを重病といい、病ははなはだしさを益す。故に曰く、“皮肉筋脈には各々処す所があり、病には各々舎る所があり、針には各々宜しい所があり、各々同じ形ではなく、各々がその宜しい所を司る”と。実を実にすることなく、虚を虚にすることなく、不足を損じ、有余を益してはならない。五脈を取れば死し、三脈を取れば怯え、奪陰は死し、奪陽は狂す。これが針害の全てである。
刺して気が至らなければその数を問うことなく、刺して気が至れば去ったのであるから復(また)針をしてはならない。針には適所があって形が不同であり、その働きに応じて刺すべきである。要は気が至れば有効だということである。効の信たるや風の雲を吹き飛ばすが如く、照(あか)るいことは蒼天が現れるが如くである。これが刺の道の全てである。
五蔵の五輸で五・五・二十五輸、六府の六輸で六・六・三十六輸、経脈十二、絡脈十五、合わせて二十七気で上下し、出る所を井といい、溜(したた)る所を栄といい、注ぐ所を輸といい、行く所を経といい、入る所を合という。
節の交は三百六十五会、その要を知れば一言で終り、その要を知らねば流散して窮まりない。いわゆる節とは神気の遊行・出入する所であり、皮・肉・筋・骨ではなく、その色を視、その目を察すれば、その散・復が知り、その形を一つにしてその動静を聴けば、その邪正が知る。右は推すことを主り、左は制御堅持し、気が至れば去ったのである。
針を用いるときは、先ず脈を診て、気の劇・易を視て病を治すべきである。五蔵の気がすでに内で絶しているのに針を用いてその外を実する、これを重竭という。重竭は必ず死を招く。その死は静であり、治すときにその気に反して腋と膺で取ったためである。五蔵の気がすでに外で絶しているのに針を用いてその内を実する、これを逆厥といい、逆厥は必ず死を招き、躁であり、治すときに反して四末を取ったためである。
針の害は中てても去らないと精が洩れ、中らなくとも去れば気をもたらす。精が洩れると病が甚だしくなって狂し、気をもたらすと癕・瘍を作る。
2022-04-20
【黄帝内経太素21-2 九針要解】
以下は前節「九針要道」の注釈。
「粗は形を守る」刺法を守る
「工は神を守る」人の血気を守り、有余・不足を補瀉する
「神と客」正・邪が共に会する、神は正気、客は邪気なり
「門にあり」邪が正気の出入する所を循る
「その疾は視えにくい」正邪が入って病を起こそうとしているのが何経かを知れ
「その源は分らない」病を治す所にある徴候を知れ
「刺針の微は速遅にある」速・遅は徐・疾なり
「粗は関を守る」四肢は守るが血気・正邪の往来が分からないから粗という
「工は機を守る」補瀉を司る者は神気を守る
「機の動きは空から離れない」孔穴によって神気の虚実が知る
「空中の機は清静にして微」針で気を得たら意を密にして気を守って失うこと勿れ
「その来るは迎えず」気盛は補すべからず
「その往くは追わず」虚に瀉を用いるべからず
「髪をも挂かけさせてはならず」気は失いやすい
「叩っても発しない」補瀉の意が知らずに血気が尽きて癒えない
「その往来を知る」気の逆順・盛虚を知る
「期を同じくする」気の取るべき時を知る
「粗の闇かな」冥冥として気の微密さを知らない
「妙なるかな、工のみ独り有る」針意を知っている
「往くは逆」気が逆して少ない
「来るは順」形と気が平である
「逆順が知れば正行して問題とすることはない」取るべき所を知っている
「迎えるべきに奪す」瀉になる
「追い払うべきに済ます」補になる
「虚は実し」気口が虚せば補す
「満は洩し」気口が盛んなれば瀉す
「宛陳は除き」血脈を去れ
「邪が勝てば虚せしめ」諸経が有盛であればその邪を瀉す
「徐にして疾なれば実し」徐に入れて疾に出せ
「疾にして徐なれば虚す」疾に入れて徐に出せ
「実と虚は有るが如く無きが如く」実には気があり虚には気がない
「後と先を察すれば亡きが如く存るが如く」気の虚実と補瀉の先後をいい、その気がすでに下ったか、なお存るかを察せよ
「虚と実に行なえば得るが如く失するが如く」補せば得たるが如く、瀉せば失えるが如く
「気が脈にあるとき、邪気は上にあり」邪気が人に中たるときは高いので上にある
「濁気は中にあり」水穀が皆胃に入るとその精気は肺に上注し、濁気が腸胃に留まり、寒温の不適、飲食の不節により腸胃を病む
「清気は下にある」清・湿の地の気が人に中たると必ず足より始まる
「陥脈に針をすると邪気は出てゆく」上に取れ
「中脈に針をすると濁気が出てゆく」陽明の合を取れ
「針がはなはだ深いと邪気はかえって沈む」浅・浮の疾には深刺はよくなく、深いと邪が従って入り、かえって沈む
「皮肉筋脈には各々処す所がある」経絡には各々生ずる所がある
「五脈を取れば死す」病が中にあって気が不足しているのに、針を用いてその諸陰の脈を尽く大瀉すると、陰絶となり死す
「三脈を取れば怯える」三陽の気を尽く瀉すと、病人を怯えさせ回復しない
「奪陰は死す」尺の五里(肘上にある)を取り五往する(五回瀉を用いる)
「奪陽は狂す」正しく言い得ている
「その色を視、その目を察すれば、その散・復を知り、その形を一つにしてその動静を聴け」良医は五色を目で知り、尺寸の大小・緩急・滑濇を知れば、病む所が分かる
「その邪正が知る」虚邪と正邪の風を知り理屈づける
「右は推すことを主り、左は制御堅持す」針を持って出入する
「気が至れば去った」補瀉で気が調えば去ったと言える
「調気は終始にありて一つ」心を持す
「節の交は三百六十五会」脈絡が諸節に滲灌するところ
「五蔵の気がすでに内で絶している」脈口で気が内絶して至らないのに、反対にその外の病処と陽経の合とを取って留針して陽気を到らしめたため、内が重竭して死するのみ
「五蔵の気がすでに外で絶している」脈口の気が外絶して至らないのに、反対に四肢の輸を取って留針して陰気を到らしめたため、陽気が入り、逆厥となり、陰気の有余によって死ぬ
「その目を察せよ」五蔵は五色の明るさを増す、五色が明るさを増せば五声が章(あきら)かとなり、病がなくなる
2022-04-21
【黄帝内経太素21-3 諸原所生】
五蔵には六府があり、(六府?)には十二原がある。十二原は四関(=四肢)より出て四関が五蔵を主治する。五蔵に疾があれば常に十二原を取れ。十二原とは五蔵が三百六十五節に気味を与える所以である。五蔵に疾があると応が十二原に出るのは、原が各々の出る所であるからで、その原を明知しその応を視れば五蔵の害が知(わか)る。
陽中の少陰は肺であり、その原は太淵に出て、太淵二
陽中の太陽は心であり、その原は太陵に出て、太陵二
陽中の少陽は肝であり、その原は太衝に出て、太衝二
陰中の太陰は腎であり、その原は太谿に出て、太谿二
陰中の至陰は脾であり、その原は太白に出て、太白二
膏の原は鳩尾に出て、鳩尾一
肓の原は脖胦(ほつおう)に出て、脖胦一
これら十二原は五蔵六府に疾があるのを主治する。脹は三陽を取り、飡洩は三陰を取れ。
今その五蔵に疾があるとすれば、譬えば棘のごとく、汗のごとく、結のごとく、閉のごとし。棘は久しといえども猶お抜くべく、汗は久しといえども猶お雪(そそ)ぐべく、結は久しといえども猶お解くべく、閉は久しといえども猶お決(ひら)くべきである。「久疾は取り除くことができない」と言うが、この説は非である。それ善く針を用いればその疾を取り除くこと、棘を抜くがごとく、汗を雪ぐがごとく、結を解くがごとく、閉を決くがごときである。疾が久しくとも猶お畢(おわ)らせることができる。「できない」というのは、未だその術を得ていないからだ。
熱を刺すには手にて湯を探るが如くし、寒清を刺すには人が行くのを欲(この)まないかの如くせよ。陰に陽疾があれば下陵三里に取れ。正しく行えば殆いことはない。気が下れば止め、下らなければ復た始めよ。疾が高く(頭にある)ても内にあれば陰の陵泉に取り、疾が高くても外にあれば陽の陵泉に取れ。
2022-04-22
【黄帝内経太素21-4 九針所象】
九針は天地の大数であり、一より始まって九に終る。曰く、“一は天に法り、二は地に法り、三は人に法り、四は四時に法り、五は五音に法り、六は六律に法り、七は七星に法り、八は八風に法り、九は九野に法る”と。故に、九野を立て、九・九・八十一で黄鐘数を起(た)てて針を数に応ぜせしめる。
一は天であり、天は陽であり、五蔵の天に応ずるのは肺であり、肺は五蔵・六府の蓋であり、皮が肺の合であり、人の陽である。故に、治をなす針は、必ずその頭を大にしてその末を鋭にし、深く入り得ないようにして陽気を出す。
二は地であり、地は土であり、人の土に応ずるものは肉である。故に、治をなす針は、必ずその身を筒にしてその末を員(=円)にし、肉分を傷つけないようにする。傷つけると気が竭(つ)きるからである。
三は人であり、人が生を成すもとは血脈である。故に、治をなす針は、必ずその身を大にしてその末を員にして、脈を按ずる可きで、陥(い)れることなくその気を致らせ邪気のみ独り出すのである。
四は時であり、時とは四時の八風が経絡の中に客し痼病となる。故に、治をなす針は、必ずその身を筒にしてその末を鋒にし、熱を瀉し血を出す可きで、痼病を竭きさせる。
五は音であり、音は冬夏の分であって子午を分ち、陰と陽との別れめ、寒と熱との争うところ、両気が相薄し合して癕膿を作る。故に、治をなす針は、必ず末を釖鋒の如くすれば大膿を取ることができる。
六は律であり、律は陰陽・四時を調えて十二経脈に合する。虚邪が経絡に客して暴痹を起こす。故に、治をなす針は、必ず尖を氂(ぼう)の如く、かつ員、かつ鋭、中身は微かに大きくして暴気を取る。
七は星であり、星は人の七竅であり、邪が経に客して痛痹を起こし経絡に舎る。故に、治をなす針は、尖を蚊虻の嘴の如くし、静かに徐に刺し、微かに久しく留め、正気が因っていき真邪が俱に往けば、針を出して養う。
八は風であり、風は人の股・肱の八節であり、八正の虚風、すなわち八風が人を傷つけると、内では骨解(=関節)・腰脊節腠の間に舎り深痹を起こす。故に、治をなす針は、必ずその身を長くその末を鋒にして、深邪・遠痹を取る可きである。
九は野であり、野は人の節解(=関節)の皮膜の間にあり、淫邪が身を流血し風水の状の如くなって、機関の大節に留まって通れない。故に、治をなす針は、尖を挺の如くその鋒を微かに員にして、大気が関節を通れるようにする。
一に曰う、鑱(さん)針は法を布(ほ)針に取り、末を去る半寸で急に鋭にし長さ一寸六分、熱が頭・身にあるのを主る。二に曰う、員(えん)針は法を絮(しょ)針に取り、その身を筒にしてその鋒を卵にし長さ一寸六分、分間の気を治めることを主る。三に曰う、鍉(てい)針は法を黍・粟の鋭に取り、長さ三寸半、脈を按じ気を取り邪を出すことを主る。四に曰う、鋒(ほう)針は法を絮針に取り、その身を筒にしその末を鋒にし長さ一寸六分、癕熱から出血さすのを主る。五に曰う、鈹(ひ)針は法を釖鋒に取り、広さ二分半長さ四寸、大癕膿で両熱が争うのを主る。六に曰う、員利(えんり)針は法を氂に取り、その末を微かに大にしその本を反って小にし、深く入れることができるようにして長さ一寸六分、癕・暴痹を取ることを主る。七に曰う、毫(ごう)針は法を豪毛に取り長さ一寸六分、寒痛痹を取ることを主る。八に曰う、長針は法を綦針に取り長さ七寸、深邪・遠痹を取ることを主る。九に曰う、大針は法を鋒針に取り、その針は微かに員で長さ四寸、大気が関節から出られないのを取ることを主る。針形の畢(すべて)であり、これが九針の小大・長短の法である。
九針の名により各々同形ではない。一に曰う鑱針、二に曰う員針、三に曰う鍉針、四に曰う鋒針、五に曰う鈹針、六に曰う員利針、七に曰う毫針、八に曰う長針、九に曰う大針。鑱針は頭大で末鋭、主として陽気を瀉す。員針は鋒が卵形の如く分間をこすって肌を傷つけることなくして分気を瀉す。鍉針は鋒が黍・粟の鋭の如く、主として脈を按じ刺すことなくしてその気を致す。鋒針は三隅を刃にし、もって痼疾を発する。鈹針は末を釖鋒の如くにして大膿を取る。員利針は尖を氂の如くし、かつ員かつ鋭に中身は微かに大にして暴気を取る。毫針は尖を蚊虻の嘴の如くし、静かに徐に刺し微かに久しく留めて養い痛痹を取る。長針は鋒が利(するど)く身を丸くし、もって遠痹を取ることができる。大針は尖を挺の如くその鋒は微かに員にし機関(=関節)の水を瀉す。九針の畢(すべて)である。
2022-04-23
【黄帝内経太素22-1 刺法】
黄帝:手少陰の脈にのみ輸がないのは何故か?
岐伯:少陰は心脈であり、心は五蔵六府の大主であり、精神の舍る所、その蔵は堅固で邪が容(はい)ることはできない。容れば心が傷つき、心が傷つけば神が去り、神が去れば死である。故に、諸邪が心にあるとは、皆心の包絡にあるのであり、包絡が心主の脈である。
黄帝:少陰のみ輸がないと、少陰は病むことがないということか?
岐伯:その外経は病んでも蔵は病みません。その経の掌後兌骨の端を取ればよく、その他の脈の出入・屈折、その行(めぐり)の徐疾などは皆厥陰心主の脈行の如きである。もともと輸とは、皆その気の虚実により、疾徐して取るものであり、衝によって瀉し、衰によって補せば邪気を去ることができ、真気は堅固となる。これを天の序によると謂う。
黄帝:針を持す縦舎(=進退)は奈何?
岐伯:必ず明知すべきは十二経の本末、膚の寒熱、脈の盛衰、滑濇である。その脈が滑で盛は病が日に進み、虚で細は久しく持し、大で濇は痛痹であり、陰陽が一の如きは瘤(こぶ)であり、その本末は治し難く、上熱は病が尚お在り、その熱が衰えればその病も亦去る。その尺を持すことによりその肉の堅脆・大小・滑濇・寒温・燥湿を察し、目の五色を視ることにより五蔵を知り死生を決し、その血脈を視ることによりその五色を察し、その寒熱・痛痹を知るのである。
黄帝:針を持す縦舎について余は未だにその意を得ない。
岐伯:針を持す道は端正、安静なるがのぞましく、先に実虚を知って疾徐を行い、左指にて骨を執り、右手にて循(な)で、肉果を傷つけてはならない。瀉は端正がのぞましく、補は必ず膚を閉じ、転針・導気すれば邪を淫泆することができ、真気を居せしめることができる。
黄帝:皮に触れ腠理を開くには奈何?
岐伯:その分肉に因ってその膚を弁別し、微かに入れて徐・端にすれば適に神を散ずることなく、邪気を去ることができる。
黄帝:善し。人に八虚が有るとは各々何を候(うかが)うのか?
岐伯:五臓を候う。肺・心に邪が有ればその気は両肘に留まり、肝に邪が有ればその気は両腋に留まり、脾に邪が有ればその気は両髀に留まり、腎に邪が有ればその気は両膕に留まり、これら八虚は皆機関の室、真気の過ぎる所、血絡の遊ぶ所、邪気・悪血は因って在留せしめてはならず、留まれば筋絡を傷つけ骨節の機関は屈伸できなくなり、痀攣を起こす。
黄帝:余は未だ堅然としていない。夫子の問学は何によって得られるのか?
岐伯:匠人は尺寸を捨てて短長を図り、縄墨を廃して水平を起てることは不能であり、工人は規を置いて円を描き矩なくして方をを描くことは不能である。これらを用いることを知れば、自然の物に因る用いやすい教えであり、逆順の常となるものである。
黄帝:自然について聞きたい、奈何?
岐伯:深きに臨んで水を決(はか)せば、功力を用いずとも水を竭(つく)すことができ、堀に沿って衝(みち)を決(ひら)けば経(みち)を通ずることができる。これは気の滑濇、血の清濁、行の逆順を言う。
黄帝:人の白黒、肥痩・少長について聞きたい。各々数があるのか?
岐伯:年・質ともに壮大、血・気は充盈し膚・革も堅固な場合、邪にあてられてこれを刺すときは深くして留める。肩・腋・項は広く肉は薄く皮は厚くて黒色、脣は臨臨然たる場合、その血は黒くて濁り、その気は濇り、その人となりは取ったり与えたり貪であり、これを刺すには深くして留めその数を多めに益する。痩人を刺すには薄皮で色は少なく肉は廉廉然として脣は薄く、軽言で、その血は清(す)み、気は滑らか、気が脱けやすく、血を損じやすく、これを刺すには浅くして疾にすべきである。常人を刺すには、その白黒を視て各々調え、その端正、毛厚はその血気が調和しており、これを刺すには常数を失してはならない。壮士の真骨を刺すには、堅肉・縦節で監監然としており、この人が重厚な場合は気濇、血濁であり、これを刺すには深くして留めその数を多めに益し、軽勁な場合は気滑、血清であり、これを刺すには浅くする。嬰児は肉脆、血少、気弱であり、これを刺すには豪針を用い、浅く刺して疾に針を出し、日に二回までとする。
黄帝:深きに臨んで水を決(はか)すとは奈何?
岐伯:血清、気滑を疾瀉すると気が竭(つ)きるのである。
黄帝:堀に沿って衝(みち)を決(ひら)くとは奈何?
岐伯:血濁、気濇を疾瀉すると経(みち)を通ずることができるのである。
黄帝:布衣(=庶民)・匹夫の五体の逆順については分った。王公・大人・血食の君など、身体が柔脆で肌肉は需弱でも血気は剽悍・滑利である者について、その刺の徐疾・浅深・多少など同じであろうか?
岐伯:膏梁(=美食)と菽藿(=粗食)の味が何で同じであろうか。気滑なれば出すこと疾(はや)く、気濇なれば針を大にして深く入れる。深ければ留めるがよく、浅ければ疾なるべきである。故に、布衣を刺すには深くして留め、大人を刺すには微にして徐となすべきである。これらは皆気の剽悍・滑利によるのである。
黄帝:形気の逆順は奈何?
岐伯:形気の不足、病気の有余、これは邪の勝によるものであり、急瀉すべきである。形気の有余、病気の不足は急補すべきである。形気の不足、病気の不足は陰陽の気がともに不足の為であり、刺すべきではない。刺すと不足が重なり、不足が重なると陰陽がともに竭(つ)き、血気も皆尽き、五蔵は空虚、筋・骨・随も枯れ、老人は絶滅し、壮者も回復しない。形気の有余、病気の有余、これを陰陽ともに有余といい、その邪を急瀉すべきで、それらの虚実を調えるのである。”有余は瀉し、不足は補せ”とは、このことを謂うのである。”刺に逆順が知(わか)らないと真・邪が相薄する。満を補せば陰陽が四溢して腸胃が充郭し、肝・肺の内は膨れ、陰陽が相錯する。虚を瀉せば経脈は空虚、血気は竭枯、腸胃は摂辟、皮膚は薄着、毛・腠は夭焦する。死期は近い”、また、”用針の要は調を知ることにある。陰と陽とを調すれば精気は光(あきら)かとなり、形と気を合すれば神が内に蔵される”、また、”上工は気を平らかにし、中工は経を乱し、下工は気を絶ち生を危うくする。故に下工は慎重でなければならない”と曰われている。その五蔵変化の病、五脈の応、経絡の実虚、皮の柔粗を必ず審らかにし、しかる後に取るべきである。
2022-04-24
【黄帝内経太素22-2 九針所生】
① 病が皮膚にあって常処がないときは鑱針を用いて病所を取り、膚白は取ってはならない。
② 病が分肉の間にあれば員針を用いて病所を取る。
③ 病が脈にあって気少で当に補すべきときは鍉針を用いて井・栄の分輸を取る。
④ 病で大膿ができているときは鈹針を用いて取る。
⑤ 病で痹気が暴発していれば員利針を用いて取る。
⑥ 痹病で気痛が去(と)れないときは毫針を用いて取る。
⑦ 病が中にあれば長針を用いて取る。
⑧ 病で水腫ができて関節が過(とお)らないときは大針を用いて取る。
⑨ 病が五蔵にあり固居しているときは鋒針を用いて取り、井・栄の分輸を瀉し四時によって取る。
2022-04-25
【黄帝内経太素22-3 三刺】
三刺では、先ず浅刺の絶皮で陽邪を出し、再刺で陰邪を出すには深さを絶皮より少し益し、肌肉に至らすも未だ分肉には入れることなく、最後に分肉の間に入れて穀気を出す。
『刺法』に曰く、“始刺は浅くして邪気を逐って血気を来たらせ、後刺は深くして陰気の邪に致し、最後刺は極めて深くして穀気を下せ”と。針を用いる場合、年の加わる所の気の盛衰、虚実の起こる所が知(わか)らなければ工とは言えぬ。
三刺して穀気を至らすには、邪僻が妄合し、陰陽が易居し、逆順が相反し、沈浮が異処し、四時を得ず、稽留し淫泆すれば、針で須らく去るべきである。一刺で陽邪を出し、再刺で陰邪を出し、三刺で穀気を至らせ、穀気至れば止める。補し已(お)えれば実し、瀉し已えれば虚すので、それで穀気の至るのが知る。邪気が独り去るのみで、陰と陽が未だ調ってなくとも病の癒えるのが知る。故に曰く、“補して実し、瀉して虚せば、痛みが針に随わずとも高(つよさ)は必ず衰去する”と。
陰盛で陽虚は先にその陽を補し、後でその陰を瀉して和し、陰虚で陽盛は先にその陰を補し、後でその陽を瀉して和す。
三脈(=足陽明、足厥陰、足太陰)が足の大指の間で重なっており、必ずその実虚を審らかにすべきである。虚を瀉すを重虚といい、重虚は病の甚だしさを益す。凡そこれを刺すには、指で按じ、脈が動で実、まさに病んでいれば素早く瀉し、虚で徐であれば直ちに補す。これに反すれば病の甚だしさが益す。その重なりは、陽明が上にあり、厥陰が中にあり、太陰が下にある。
膺輸は胸中、背輸は背中にある。肩髆の虚は上に取り、重舌は舌柱を鈹針で刺し、手が屈して伸びないのはその病が筋にあり、伸びても屈しないのはその病が骨にあり、骨にあれば骨を守り、筋にあれば筋を守る。
補は一方の実をまち深く取り、稀にその痏を按じてその邪気を出し尽くし、一方の虚をまち浅く刺し、その脈を養い速やかにその痏を按じ、邪気が入り得なくする。
邪気が来るのは堅で疾、穀気が来るのは徐で和であり、脈実は深く刺してその気を洩らし、脈虚は浅く刺して精気を出さないようにし、その脈を養い、独りその邪気のみを出す。
諸痛を刺すときは深く刺すべきで、諸痛はその脈が皆実しているからである。
腰以上は手太陰・陽明が主り、腰以下は足太陰・陽明が主り、病が上(=手太陰・陽明)にあれば下(=足太陰・陽明)に取り、病が下(=足太陰・陽明)にあれば高(=手太陰・陽明)く取る。
病が頭にあれば足に取り、病が腰にあれば膕に取る。
病が頭にあれば頭が重く、手に生ずれば臂が重く、足に生ずれば足が重く、治病にはその病が生じた所を先に刺す。
春気は豪毛にあり、夏気は膚にあり、秋気は分肉にあり、冬気は筋骨にあり、これらの病を刺すには、各々その時をもって斉(ひとし)くする。故に、肥人を刺すには秋冬と斉しく深く刺し、痩人を刺すには春夏と斉しく浅く刺す。
痛みを病むのは陰であり、痛みが手で按じても得られないのは陰であり、深刺すべきである。
病が上にあれば陽であり、下にあっても痒いのは陽であり、浅刺すべきである。
熱厥を刺すには留針により反って寒となり、寒厥を刺すには留針により反って熱となるので、熱厥を刺すときは二陰・一陽とし、寒厥を刺すときは二陽・一陰とする。二陰とは陰を二刺すことであり、一陽とは陽を一刺すことである。
久病は邪気の入りが深く、急病を刺すには深く入れて久しく留め、日をあけて復た刺すのであるが、必ず先にその左右を調えその血脈を去るべきである。以上が針道の畢(すべて)である。
およそ刺の法は、必ずその形気を察すべきで、形肉が未だ脱(ぬ)けてなくとも少気であり、しかも脈が躁、躁厥は必ず繆刺(左は右、右は左を刺す)をなし、散じた気は収めるべく、聚まった気は稀とすべきである。
深きに居し静けきに処し、神とともに往来し、戸を閉じ牖(まど)を塞ぎ、魂魄を散らすことなく、意を専らに神を一にし、精気を分つことなく、人声を聞くことなくしてその精を収め、必ずその神を一にして針に置き、浅く留め微かに浮かしてその神を移し、気が至れば休む。
針下に男内(=正気?)を得たら堅く拒み出すことなく、針下に女外(=邪気?)を得たら謹守して内に入れるなかれ。これを得気という。
2022-04-26
【黄帝内経太素22-4 三変刺】
刺に三変あり。営を刺すあり、衛を刺すあり、寒痹を刺すあり。営を刺して出血させ、衛を刺して出気させ、寒痹を刺して内熱せしめる。
営が病を生ずるのは寒熱・少気、血の上下行であり、衛が病を生ずるのは気痛が時に来り時に去り、こもって満ち、横隔膜が押され、風寒が腸胃の中に客したものである。寒痹の病たるや、留まって去らず、時に痛んで皮の不仁(=知覚麻痺?)を起こす。
寒痹を刺して内熱せしめるには、布衣(=平民)を刺すときは必ず火焠し、大人(=貴族)を刺すときは薬熨する。
2022-04-27
【黄帝内経太素22-5 五刺】
刺に五つあって五蔵に応ずる。
一は半刺、浅く入れて速やかに針を発し、針傷を多く髪を抜くが如くして皮気を取る。これは肺の応である。
二は豹文刺、左右・前後に刺し、針の脈に中たるをよしとして経絡の血を取る。これは心の応である。
三は開刺(または豈刺)、直に左右を刺し、筋上にまで尽(きわ)めて筋痹を取る。慎んで出血せしめることなかれ。これは肝の応である。
四は合刺、左右に鶏足の如く、分肉の間に刺し、以て膚痹を取る。これは脾の応である。
五は輸刺、直に入れ直に出し、深く入れて骨に至らしめ、以て骨痹を取る。これは腎のおうである。
2022-04-28
【黄帝内経太素22-6 五蔵刺】
邪が肺にあると、皮膚寒熱を病み、上気・喘・汗出し、欬が出ると肩背を動ずる。膺中外輸(=肺兪、心兪)を取れ。背の三椎・五椎の傍、手で強く押して快然たるところを刺せ。缺盆の中も取って治せ。
邪が肝にあると、両脇中痛・寒中、悪血が内にあって行ると善く痙攣を起こし、節が時に腫れる。行間を取って脇下を引き、三里を補して胃中を温め、血脈を取って悪血を散じ、耳間の青脈(=瘈脈)を取ってその痹を去れ。
邪が脾・胃にあると、肌肉が傷み、陽気有余・陰気不足は熱中・善飢し、陽気不足・陰気有余は寒中・腸鳴・腹痛し、陰陽ともに有余もしくはともに不足は有寒・有熱である。皆三里を調えよ。
邪が腎にあると、骨痛・陰痹(按じても分らない)・腹痛・腰痛・大便難・肩背頸項痛、時には眩を起こす。湧泉・崑崙を取り、血が有るのを見つけて尽く取れ。
邪が心にあると、心痛を病み、喜び悲しむときに眩仆する。有余・不足を見てその輸を調えよ。
2022-04-29
【黄帝内経太素22-7 五節刺】
刺に五節あり。一に振挨(しんあい)、二に発矇(はつぼう)、三に去爪(きょそう)、四に徹衣(てつい)、五に解惑(かいこく)と曰う。
振挨は外経を刺し、陽病を去る。
発矇は六府の輸を刺し、府病を去る。
去爪は関節の支絡を刺す。
徹衣は諸陽の奇輸を尽く刺す。
解惑は陰陽を調えることを尽く知り、有余・不足を補・瀉し相傾移せしめる。
振挨は陽気が大逆し、胸中に満ち、煩瞋・肩息し、大気が逆上し喘喝して坐伏し、病むと挨煙を悪(にく)み、噎(むせ)び息ができない。刺すと病が去るのが挨(ちり)を振うより速やかなので振挨という。天容に取る。その欬・上気し窮詘・胸痛するのは廉泉に取る。天容を取る時は一寸を過ぎることなく止め、廉泉を取る時は血変ずれば止める。
発矇とは矇を発するより速やかなるをいう。これを刺すときは必ず日中においてし、聴宮を刺し、眸子(ひとみ)に中て、声が耳に聞こえると、これがその輸である。邪を刺すとき、手で堅くその両鼻竅を押えて速やかに仰向けにすると声が必ず針に応(ひび)く。
去爪は、腰・背は身の大関節であり、股・胻(すね)は人の趨翔する所以であり、茎・垂は中身の機であり、陰精の候、津液の道である。故に飲食の不節、喜怒の不時により、津液は内に溢れ、下って睾に溜まり、水道は不通となり、日に大きくなって休まず、俯仰が不便となり趨翔も不能となる。この病は栄然として水が溜まり、上りも下りもしない。鈹針にて取れば形が匿れることなく、常に塞がることなく、故に去爪という。
徹衣は陽気有余で陰気不足、陰気不足は内熱を起こし、陽気有余は外熱を起こす。熱がともに相迫り炭火を懐くがごとく熱し、外は重糸帛衣を身に近づけず、またよく席に近づけない。腠理は閉塞し汗が出ず、舌は焦げ脣は枯肉のごとく、嗌が乾き飲を欲しがり、美・悪を選ばない。その府を取り、大杼に三痏し、中膂を刺してその熱を去り、手足の太陰を補してその汗を出せば、熱が去り汗が止むこと、衣を脱ぐより速い。
解惑は、大風が身にあれば血脈が偏虚し、虚は不足、実は有余し、軽重があるため寝返りが出来ず、東西が分からず、南北も分らない。乍ち上り乍ち下がり、乍ち反覆顛倒して無常であり、迷惑が甚だしい。その有余を瀉しその不足を補せば陰陽は平に復る。針を用いれば、このように惑を解くのが速やかである。
2022-04-30
【黄帝内経太素22-8 五邪刺】
刺に五邪あり。疾には癕あり、容大あり、狭小あり、熱あり、寒あり、これらを五邪という。
五邪を刺す方は五章に過ぎず、癉熱は消滅させ、腫聚は散亡させ、寒痹は温を益し、小は陽を益し、大は必ず去らしめる。
癕を刺すには、大盛に向かって刺してはならない。俗を易(か)え、性を移しても膿が出なければ詭道を更に行い、その郷より去らしめ、そのある所に不安ならしめると散亡する。諸々の陰陽が癕所を過ぎていれば、その輸を取って瀉す。
大邪を刺すには、日にもって小洩し有余を奪して虚を益し、その道を慎み、その邪を針すれば肌肉は親しんでくる。有無を視てその真に反しておれば、諸陽の分肉の間を刺す。
小邪を刺すには、日にもってその不足を大補すれば無害であり、その所在を視て境に迎えるならば、遠近より尽く至って外れることはなく、過ぎるまで行うと自ら費える。分肉の間を刺す。
熱邪を刺すには、越して冷やし出遊せしめて戻さなければ無病となる。開道といえる。門戸を開き邪を出せば疾は癒える。
寒邪を刺すには、日にもって暖め徐に往き速やかに去り、その神が致って門戸を閉ざせば気は分れることなく、虚実は調い、真気は保存される。
癕を刺すには鈹針を用い、大を刺すには鋒針を用い、小を刺すには員利針を用い、熱を刺すには鑱針を用い、寒を刺すには豪針を用いる。
解論について述べる。天地と相応じ四時に相副って人は天地に参じており、故に解をなす(結ぼれを解く)べきである。下に潤いがあれば上に葦・蒲が生えるごとく、この所以に形気の多少が知る。陰陽とは寒暑のことであり、熱いときは滋が上にあって根・茎に汗が少ないように、人の気も外にあって、皮膚は緩み、腠理は開き、血気は減じ、汗が大洩し、肉は潤っている。寒いときは地は凍てつき水は氷るように、人の気は中にあって皮膚は緻となり、腠理は閉じ、汗は出ず、血気は強ばり、肉は堅くなる。このときに当り、水を善く行らす者でも氷は往らせず、地を善く穿つ者でも凍を鑿てないように、針を善く用いる者も四厥を取ることができず、しかも脈が涘結堅搏して往来しないのも、すぐには柔らげることができない。故に、水を行らすときは天温氷釈凍解を必ず待ち、水を行らすべく地を穿つべきである。人の脈もかくのごとし。厥を治すには必ず先に熨してその経を調和し、常に腋・肘と脚・項と脊をともに調え、火気を通じて血脈が行ったならば、然る後その病を視て脈の淖沢たれば刺して平にし、堅緊は破って散じ、気が下れば止める。これらが結を解く所以である。
用針の類は調気することにある。気が胃に積もると営衛が通じて各々その道を行り、宗気は海に留まり、その下るのは気街に注ぎ、その上るのは息道に走り、故に厥が足にあると宗気が下らずに脈中の血が涘って止まり、火にて調えなければ取ることができない。用針の場合は、必ず先にその経絡の実虚を察し、切して循で按じて弾き、それが応動するのを視て、その後で取って下す。
六経が調っているのは不病といい、病んでも自ずから治る。一経が上実・下虚で通じないのは、これは必ず横絡が盛んになり大経を加えて不通にしたのであり、視つけて瀉すべきである。これが所謂解結である。
上寒・下熱は、先にその項の太陽を刺し久しく留め、則ち項と肩甲を熨し熱が下り合すれば止める。所謂推して上げることなり。上熱・下寒は、その虚脈で経絡に陥下するを視て取り、気が下れば止める。所謂引いて下げることなり。
大熱の編身で、狂して妄見・妄聞・妄言すれば足陽明および大絡を視て取り、虚は補し実は瀉し、よって仰向けに寝せ、その頭の前に居し、両手の四指を用いて頸動脈を按じ久しく持ち、巻いて切推して缺盆中に下至し、復び上より前の如くして熱が去れば止める。これが推して散ずることなり。
2022-05-01
【黄帝内経太素22-9 九刺】
およそ刺には九曰(きゅうえつ)があり、九変に応ずる。
一に輸刺と曰い、諸経の栄・輸など蔵輸を刺す。
二に遠道刺と曰い、病が上にあるとき下に取り、府の輸を刺す。
三に経刺と曰い、大経の結絡の経分を刺す。
四に絡刺と曰い、小絡の血脈を刺す。
五に分刺と曰い、分肉の間を刺す。
六に大刺と曰い、大膿を刺すに鈹針を用いる。
七に毛刺と曰い、浮痹で皮膚を刺す。
八に巨刺と曰い、左は右を取り、右は左を取る。
九に焠刺(さいし)と曰い、焼針を用いて痹を取る。
2022-05-02
【黄帝内経太素22-10 十二刺】
およそ刺には十二節があり、十二経に応ずる。
一に偶刺と曰い、心苦しきは背に直に、痛所に直に、前に一刺、後ろに一刺して心痹を治す。これを刺すには傍針せよ。
二に報刺と曰い、痛みに常所がなく上下に行るとき、直刺して針を刺したまま左手で病所に随って按じ、針を出し、復た刺す。
三に恢刺(かいし)と曰い、直に刺し、傍の前後を取り、筋急を恢(ゆる)めて筋痹を治す。
四に斉刺(せいし)と曰い、直入すること一、傍入すること二、もって寒気小深を治す。あるいは参刺とも曰い、痹気小深を治す。
五に揚刺と曰い、正しく入れること一、傍に入れること四、しかも浮にして寒気の博大なるを治す。
六に直針刺と曰い、皮を引いて刺し、もって寒気の浅きを治す。
七に輸刺と曰い、直入・直出して希(すくな)く針を発し、しかも深く刺す。これで気盛で熱するを治す。
八に短刺と曰い、骨痛を刺す。やや揺るがして深く刺し、針を骨に到らせ、そこで上下して骨を摩でる。
九に浮刺と曰い、傍に入れて浮にする。これで肌急で寒を治す。
十に陰刺と曰い、左右を卒に刺す。これで寒厥・中寒を治す。
十一に傍針刺と曰い、直刺・傍刺を各一する。これで留痹の久居を治す。
十二に賛刺と曰い、直入・直出し、多く針を発し、しかも浅くして出血さす。これで癕腫を治す。脈所が深くて見えない場合、微に針を入れて久しく留め、その空脈に気を致し、脈が浅いときは刺してはならない。その脈を按じ絶して刺す。精を出すことなく、独りその邪気を出すのみ。
2022-05-06
【黄帝内経太素23-1 繆刺】
繆刺とは何か?
そもそも邪が形(からだ)に客すときは必ず先ず皮毛に舎り、留まって去らなければ孫絡(=毛細血管?)に入舎し、留まって去らなければ絡脈(=静脈?)に入舎し、留まってさなければ経脈(=神経?)に入舎して、内は五蔵に連なり腸胃に散じ、陰陽が交互に盛んになり五蔵が傷つく。かくの如きは、その経を治せばよい。
さて、邪が皮毛に客し、孫絡に入舎し留まって去らず、閉塞し不通になって経に入ることができず、大絡(=動脈?)に流溢して奇病を生ずる場合がある。邪が大絡に客すと、左から右に注ぎ、右から左に注ぐ。上下する経脈の場合と異なり、四肢末端に布し、その気は常処なく、経輸には入らない。これを治すに繆刺するのである。
邪が経に客す場合は、左が盛んになれば右が病み、右が盛んになれば左が病み、病は移りやすく、左病が癒えずに右脈が先病する場合、必ず巨刺して、必ずその中の経に中(あて)るのであり、絡脈ではない。絡病はその痛みが経脈と処を繆(こと=異)にする。故に繆刺するのである。
2022-05-07
【黄帝内経太素23-2 量気刺】
百姓の血気は各々形を同じくせず、或は神が動き気が針に先んじて行(めぐ)り、或は気と針とが相逢い、或は針を出し終えてから気が独り行り、或は数刺して知(わか)り、或は針を発すると気逆し、或は数刺して病が激しさを益す。これら六者は各々形を同じくしない。
重陽の人は手荒でそそっかしく、早口で、行動が活発、心肺の蔵気が有余し陽気が滑盛で揚がっている。故に神が動いて気が先行する。重陽の人でも神が先行しないことがあるが、この人にやや陰が有る場合で、しばしば怒ることで解かる。その陰陽が合し難いので神が先行できないのである。
気と針とが相逢う場合は、陰陽が和調しており、血気が淖沢滑利、故に針を入れると気の出ることが疾(はや)くて相逢うのである。
針を出してから気が独行するのは、陰気が多くて陽気が少ない場合で、陰気は沈んで陽気は浮いているため、針を出してから気がその後に随うので独行するのである。
数刺してはじめて知る人は、多陰で少陽、その気は沈んで気が往き難く、故に刺してはじめて知るのである。
針を入れて気逆する場合と数刺しても病が甚だしさを益す場合とは、陰陽の気の浮沈の勢いよるものではなく、これらは皆粗工の敗するところ、失するところであり、その形・気の過によるものではない。
2022-05-08
【黄帝内経太素23-3 量順刺】
気に逆順、脈に盛衰、刺に太約あり。
気の逆順とは、天下・陰陽・四時・五行に応ずる所以なり。
脈の盛衰とは、血気の虚・実、有余・不足を候う所以なり。
刺の太約とは、病の刺すべきと、未だ刺すべきでないと、已に刺すべきでなくなったとを明知することなり。
候うとは、兵法で曰く「逢逢の気を迎えることなく、堂堂の陳を撃つことなかれ」と。刺法で曰く「熇熇の熱を刺すことなく、漉漉の汗を刺すことなく、渾渾の脈を刺すことなく、病と脈とが相逆するのは刺すべきでない」と。
上工は未生を刺し、その次は未盛を刺し、その次は已衰を刺し、下工は方襲のとき、形の盛なるとき、正に病と脈が相逆すときを刺す。故に曰く「方にその盛んなるを敢えて毀傷することなく、その已衰を刺せば事は必ず大昌ならん」と。故に「上工は不病を治し、已病を治さず」とは、これを謂うのである。
2022-05-09
【黄帝内経太素23-4 疽癕逆順刺】
病の生ずる時は喜怒の不測、飲食の不節、陰気の不足、陽気の有余、営気の不行などがあり、発すると癕(できもの)・疽(癕が骨まで達したもの)を為し、陰陽の気が不通となり両熱(寒と温)が相薄り、化して膿を為す。針のごとき小なるもので取り除けるのか?
そもそも癕・疽が生じ膿血が成るのは、天より下ったのでもなく、地より出たのでもなく、微が積もって生じた所である。故に、聖人の治は自ずから未だ形ならざるあり、愚者はその已成に遭うのである。膿が成れば十死一生である。故に、聖人は已成することなきよう良方を明らかに為し、竹・帛に著し、能者に踵て後世に伝えしめ、終時のあることなく、その子らに遭うことなきよう為された。小を用いて小を治すはその功は小、大を用いて大を治せば逆となり害多し。故に、膿の成ったときは唯、砭石・鈹鋒で取るのみ。傷に為すとは、その白眼が青く黒眼は小、これが一逆、薬を飲むと吐く、これが二逆、腹痛して渇の甚だしき、これが三逆、肩・項中が不便、これが四逆、音がしわがれ色がぬける、これが五逆である。これらのほかは順である。
2022-05-10
【黄帝内経太素23-5 量絡刺】
奇邪で経にない場合は血絡にある。血絡を刺して仆れる場合あり、血が出て飛ぶ場合あり、血が出て黒く濁る場合あり、血が清んで半ば汁を為す場合あり、針を刺して腫れる場合あり、出血の多少にかかわらず顔色が蒼蒼然となる場合あり、針を発し顔色は不変でも煩悶する場合あり、多く出血しても動揺しない場合あり、これは何故か。
脈気が盛んでも血虚を刺すと脱気し、脱気すると仆れる。
血気がともに盛んで陰気が多いと、その血が滑らかなので刺せば飛び出る。
陽気が蓄積し久しく留まって移らないと、その血は黒く濁って、飛ぶことはない。
新たに飲むと液が絡に滲みても未だ血と和合せず、血が出ても汁と別れている。
新たに飲んでないと身中に水があるため、久しくすると浮腫みを起こす。陰気が陽に積もるとその気は絡にあり、刺せば血が未だ出ずとも気が先行して腫れる。
陰陽の気が新たに相得て未だ和合していないと、瀉すと陰陽がともに脱けて表裏が相離れ、脱色して顔が蒼然となる。
血多を刺し色が変わらずに煩悶するのは、絡を刺して虚経に中たり、虚経の陰の属が陰脱したためである。
陰陽が相得て合わさり痹(=麻痺)となると、内で経に溢れ外で絡に注ぐゆえ、陰陽ともに有余となり、多く出血しても虚すことはない。血脈の盛とは堅く横たわり赤くて上下にはなく、小は針のごとく、大は箸のごとく、瀉せば万全である。ただし、数を失して反すれば各々前述の度合いのごとくなる。熱気が針に附いて針が熱すると、肉が針にくっつき、堅くなる。
2022-05-11
【黄帝内経太素23-6 雑刺】
四時の気には各々所在があり、灸・針の道では気穴を得ることを宝とする。故に、春は経の血脈を分肉の間に取り、甚だしきは深く刺し、軽いのは浅く取る。夏は盛経を孫絡で取り、分間を取って皮膚を絶つ。秋は経輸を取り、邪のある府を合で取る。冬は井・栄を取り、必ず深くして留める。
1) 【風水刺】風水・膚脹は五十九痏(=打傷)を為し、腹皮に血があれば尽くこれを取る。
2) 【飡洩刺】飡洩は三陰の上を補して、陰稜泉を補し、皆久しく留めて熱が行(めぐ)れば止める。
3) 【温瘧刺】温瘧で汗が出なければ五十九刺を為す。
4) 【転筋刺】陽の転筋はその陽を理(おさ)めるに焠針し、陰の転筋はその陰を理めるに焠針す。
5) 【水刺】徒水は先ず臍下三寸を取り、鈹針を用いて刺し終えて針の筒を入れ、入れては繰り返してその水を尽きさせ、必ず堅束する。緩いと煩え、急だと安静である。日を開けて一刺し水が尽きれば止めて閉薬を飲ませる。まさに刺さんとする時は絶食すべく、まさに服薬するときは食することなく、まさに食するときは服薬することなく、通常以外の食を摂らなければ、135日で癒える。
6) 【着痹刺】着痹が去らず久寒が癒えなければ焠針にてその里(=裏)骨を取る。
7) 【骭脹刺】骭(=脛)脹となり中が不便なのは三里を取り、盛は瀉し、虚は補す。
8) 【癘風刺】癘風はその腫上を索刺し、刺すに鋭針を用い、その処に穴をあけ、その悪気を按出し、脹れが尽きれば止め、方食を常食せしめ他食を食べさせてはならない。
9) 【大腸気上衝刺】腹中が常に鳴り、気が胸に上衝し喘して久立できないのは、邪が大腸にあるので賁の原(=鳩尾)・巨虚上廉・三里を刺す。
10)【小腸上衝刺】少腹より桌に控き腰背に引き心に上衝し、邪が小腸にあるのは、桌系に連なり脊に属き肝肺を貫き心系に絡しているからである。気が盛のときは厥逆して腸胃に上衝し、肝を動じ肓に散じ臍に結す。故に肓の原(=脖胦、気海)を取って散じ、太陰を刺してともにし、厥陰の下を取り、巨虚下廉を取って去り、その所過の経を按じて調える。
11)【口苦刺】善く嘔し、嘔すると苦くて長太息し、心中が済済として人から捕えられんとするを恐れるのは、邪が胆にあり、逆が胃にあるためである。胆液が洩れると口が苦く、胃気が逆すと苦を嘔する。故に、「嘔担は三里を取って胃気の逆を下し、少陽の血絡を刺して胆部を閉じよ」と言われ、その虚実を調べてその邪を去る。
12)【飲食不下刺】飲食が下らないのは膈閉による不通であり、邪が胃管にあるためである。上管にあるときは刺して抑えて下し、下管にあるときは散じて去る。
13)【腹脹不通刺】少腹が病んで腫れ小便が出ないのは、邪が三焦にあって約されたためである。足太陽の大絡、その絡脈と厥陰の小絡、結して血あるところ、腫上および胃管を視て取り、三里をも取る。
14)【取病存亡候】その色を観、その目を察してその散(病の存)・復(病の亡)を知る。その形を壱にして、気口・人迎でその動静を聴く。その脈を視て堅かつ盛かつ滑であれば病が日に日に進み、脈が濡であると病は徐々に治り、諸経が実してくれば病は三日で癒える。気口で陰を候い、人迎で陽を候うのである。
15)【不診刺】刺家が診せずとも病者が「頭疾のため頭痛がする」と言えば、蔵針を為し、刺して骨に至らせば病は癒える。骨・肉および皮を傷つけてはならない。皮は道であるからだ。陽刺して入れること一、傍に四する。
16)【寒熱刺】寒熱の深専なるを治すには大蔵を刺すべきで、蔵に迫って背輸を刺し、刺して蔵に迫り、蔵気を腹中に会し寒熱の気が去れば止める。いっしょに腰を刺して蔵気を発して洩らし出血さす。
17)【癕腫刺】癕腫を治すには癕上を刺すべきで、癕の小大・深浅を視、大を刺すには血を多く出し、深くして必ず正しく蔵に入れば故と為し止める。
18)【腸積刺】病が小腸にあって積があるときは、腹の臍以下少腹に至るを刺して止め、脊を挟んで刺すに両傍四椎間を刺し、腰骨の両側、髀、季脇肋間を刺し、腸中に導き、熱が下気すれば癒える。
19)【痛疝刺】病が少腹にあり、痛んで小・大便が出ない病を疝と謂い、寒により得たのである。少腹両股間を刺し、腰股の骨間を刺し、刺を多くして尽く熱すれば病は癒える。
20)【筋痹刺】病が筋にあって攣(ひきつ)り諸節が痛み、歩むことができないのを筋痹と謂う。筋上を刺すを故と為し、分間を刺すべきで、骨に中(あ)ててはならない。病は筋に起きたのであり、熱して病が癒えれば止める。
21)【肌膚痹刺】病が肌膚にあって尽く痛む痛痹は寒湿に傷ついたのである。大分・小分を刺し、針を多発して深くし、熱するを故と為す。
22)【痹骨刺】病が骨にあって骨が重くて挙がらず、骨髄が痠痛(さんつう、鈍い痛み)し、寒気がするのを骨重痹と謂う。深く刺しても脈・肉を傷つけないのを故と為し、その大分・小分に至らして骨が熱すると病が癒える。
23)【狂病刺】病が諸々の陽脈にあって且つ寒し且つ熱し、諸々の分も且つ寒し且つ熱するのを狂と謂う。虚脈を刺して分を視、分が尽く熱し病が癒えれば止める。
24)【癲病刺】病の初発の盛んな一発を治療しないでおれば日に一発しはじめ、治療しないでいると四・五発するようになる。これを癲病と謂う。その諸々の分と諸々の脈を刺し、甚だしい寒があれば針を用いて調え、病が癒えれば止める。
25)【寒熱刺】病風で且つ寒し且つ熱し汗が出ること日に数度あれば、先ず諸々の分理・絡脈を刺す。汗が出て且つ寒し且つ熱すれば、三日に一刺すると百日で癒える。
26)【大風刺】大風を病み、骨節が重く鬚・眉が堕落すのを大風と謂う。肌肉を刺すを故と為し、汗を出さしめること百日、骨髄を刺して汗を出さしめること百日、あわせて二百日、鬚・眉が生えてくれば止める。
2022-05-12
【黄帝内経太素24-1 天忌】
用針を服すには必ず法則がある。天に法り地に則う、合するに天光(太陽・月・星)を以てす。
およそ刺の法とは必ず日・月・星辰・四時・八正の気を候い、気を定めて刺す。故に、天温・日明のときは、人血も淖液(たくえき)となり衛気は浮ぶ。故に血は瀉し易く、気を行らし易い。天寒・日陰のときは、人血は涘泣(ししゅう)して衛気は沈む。月が生じ始めると、血気は精となり始め衛気も行り始める。月郭が満つると、血気は盛んに肌肉は堅くなる。月郭が空になると、肌肉は減じ経絡は虚し、衛気は去り形が独りあるのみ。これ、天の時により血気を調える所以である。この故に、「天寒なれば刺すことなく、天温なれば疑することなく、月生のときは瀉すことなく、月満のときは補すことなく、月郭空のときは療するなかれ」とは、これ、時を得て調えよという謂うことであり、天の序、盛虚の時に因り移光を定位し、正立して待つのである。故に曰く、「月生のときに瀉す、これを蔵虚と謂う。月満のときに補すと、血気が揚溢し経に留止を起こす、命じて重実と曰う。月郭空のときに治をなす、これを乱経と謂う。陰陽相錯し真・邪を別けられず、沈んで留止し外虚・内乱して淫邪が起こる」と。
星辰とは日月の行りを制する所以、八正とは八風の虚邪が時を以て至るのを候う所以、四時とは春夏秋冬の気の所在の時を以て調える所以である。八正の虚邪は避け、犯されてはならない。身が虚してしかも天の虚に逢えば両虚が相感じ、その気が骨に至り入ると五蔵を傷つける。工(=良医)は候って救うので傷つけることがない。故に曰く、「天忌は知っていなければ可ならず」と。
2022-05-13
【黄帝内経太素24-2 本神論】
【往古の法】
往古に法るとは先ず『針経』を知ることである。
来今に験するとは、先ず日の寒温、月の盛虚を知り、以て気の浮沈を候って身を調え、その有験を立てて観ることであり、冥冥として観るとは、形気・営衛が外に現れにくいことを言う。しかるに、工(=良医)独りが知るのみであり、日の寒温、月の盛衰、四時気の浮沈とともに参伍相合して調える。
無窮に通ずるとは、以て後世に云うべきだということである。この故、工の異なる所以であり、然も外に形見しにくく、ともに見え得るわけではない。視ても無形、嘗めても無味、故に冥冥として神のごとく髣髴たりと曰う。
虚邪とは八正の虚邪気をいい、正邪とは身形の飢え、もしくは用力して汗出し腠理が開いたときに虚風に逢ったことをいい、その中たり入るのは微である。故に、その情は知りにくく、その形も見えない。
上工はその萌牙を救い、必ず先ず三部九候の気を知り、尽く調える。故に敗することなく救い得る。故に、「下工はその已成を救わんとする」と曰うのは、三分九候の気を知らずに相失し、因って疾敗することを言う。その所在が知れば、三分九候の病脈を知診し処して治すことができる。故に曰く、「その門戸を守れば、その情を知らずともその邪形は見(あらわ)れる」と。
【補瀉の意】
瀉は必ず方(=正)に用いる。方とは気の方盛を以てし、月の方満を以てし、日の方温を以てし、身の方定を以てし、息の方吸を以てすることである。そこで針を入れ、復たその方吸を候って針を転じ、復たその方呼を候って徐に針を引く。故に曰く、「瀉は必ず方に用いよ、その気はすなわち行る」と。
補は必ず員(=円)に用いるとは、行るということである。行は移であり、刺して必ずその営に中て復た吸を用いることである。故に員と方とは排針することである。神を養うには必ず形の肥痩、営衛・血気の盛衰を知ることであり、血気とは人の神であり、謹んで養わなくてはならない。
【形と神】
形なるかな形、目には冥冥、その痛む所を問い、経に索(もとめ)るのみで、どうして在前のことが然(わか)ろうか。按じても得られず、復たその情も知らない故、形と曰う。
神なるかな神、耳に聞き目に明(み)えることはなく、心を開き志を先んずべきである。聡然として独り悟るのみであり、口にて言うことはできず、皆に見(あらわ)れるはずなのに独り工に見れるのみ。まさに昏きがごときも昭然として独り明らかなること、風が雲を吹き払うがごときで、故に神と曰う。三分九候が原であり、九針の論に必ずあるとは申せない。
2022-05-14
【黄帝内経太素24-3 真邪補瀉】
営衛の気が傾移し虚実が生じると、気の盛衰、左右の傾移があり、上を以て下を調え、左を以て右を調え、有余・不足は栄輸で補瀉したりする。
邪気が経に在ってその人を病ます場合は、天に宿度あり地に経水ある如く、人には経脈がある。天地温和なれば経水は安静、天寒・地凍なれば経水は涘泣、天暑・地熱なれば経水は沸き、卒風が暴起すると経水は波涌して隴起する。そこで、邪が脈に入るや、寒なれば血は涘泣し、暑なれば気血は淖沢となり、虚邪が入客すると経水が風をえたるが如くになり、経の動脈はそれが至ると隴起し、その脈中を行るや循循然としてめぐり、その寸口に至るや時に大、時に小、大なれば邪至り、小なれば平ら、その行りは常処なく、陰と陽にあって度(はか)りがたく、循(な)でて三分九候を察し、卒然として逢えば早くその路を抑え、吸するときに針を入れ気を逆らわすことなく、静かに久しく留めて邪を広げることなく、吸するときに針を転じ気を得るを以て故と為し、呼を候って針を引き呼が尽きて去れば、大気は皆出ていく。これを瀉と曰う。
不足の場合は、必ず先ず擦り循(な)で、切して散じ、推して按じ、弾いて怒し、掻いて下し、通じて取り、外はその門を引いて神を閉じ、呼が尽きて針を入れ、静かに久しく留め、気の至るを以て故と為し、あたかも貴い人を待つとき日が暮れるのも分らないかの如く、その気が至れば適(まさ)に人自ら護り、吸を候い針を引き、気を出すことなきよう各々その処に在らしめ、その門を推し闔(ふさ)ぎ、神気を存せしめる。これを補と曰う。
【気を候う】
およそ邪気が絡を去って経に入るときは、血脈中に合してもその寒温が未だ和することなく、涌波が起こるときのように時に来り時に去って常住しない。故に曰く、「その来るにあたっては必ず按じて止め、止めてから取れ。その衝にあたっては瀉すことなかれ」と。真気とは経気のことであり、経気の大虚には「その来るも迎えるべからず」と曰うはこの謂いである。故に、「邪を候うに審らかならず、大気が已に過ぎてから瀉すと真気が脱し、脱すると復しがたく、邪気が復た至って病は益蓄する」と曰い、また「その往くは追うべからず」と曰うはこの謂いである。挂(か)けるに髪をも以てすべからず(=間髪を入れず)とは、邪が至る時を待ち、針を発して瀉すことであり、若しくは、先んじ若しくは後れるとは、血気が尽きるのみで、その病は下らず、故に「その取るべきときを知れば発機する如く、その取るべきときを知らないと推すことを控えるが如し」と曰い、また「機の道を知れば挂(か)けるに髪をも以てすべからず、機を知らざれば控えて発せず」と曰うはこの謂いである。
【補瀉】
補瀉は邪を攻めることであり、疾(すみや)かに出して盛血を去り、その真気を復することである。この邪が新たに客したときは未だ定処がなく、推せば進み引けば止る。温血は刺してその血を出せば、その痛みは立ちどころに癒える。
【真邪の合】
真邪が合して波隴が起きない場合は、審らかに三分九候の盛虚を撫で擦って調え、その左右・上下の相失、相減を察し、その病蔵を審らかにするを以て期とする。三部が分からないと陰陽を弁別できず、天地も分別できない。天で天を候い、地で地を候い、人で人を候い、中府を調えるには三部を定めるのである。故に曰く、「刺において三部九候の病脈の処を知らなければ、粗医、良医であろうと病を禁(と)めることができない。生ける人を誅罰するのを大惑と曰う。反って大経を乱し真に復することができず、実を虚と為し、邪を真と為し、針を用いるに義が無く、反って気を損ない人の正気を奪い、順なるべきに逆をなして営衛を散乱せしめ、真気は已に失われ邪が独り内に着き、人の長命を絶ち、人に天殃を与える。故に、三分九候を知らなければ長久ならしめることができない。よって四時・五行に合するを知らず、よって相勝を加え邪を釈(と)かし正を攻め、故に人の長命を絶つ。邪が新たに来客するときは、未だ定処はなく、推せば進み引けば止る。迎えて瀉せばその病は立ちどころに癒える」と。
㊟「天で天を候い、地で地を候い、人で人を候い、中府を調えるには三部を定める」とは、足竅陰を天とし、足少陰を地とし、足太陰を人として、肝・腎・脾の三種の地を候う。手太陰を天とし、手陽明を地とし、手少陰を人として、肺・胸・心の三種を候う。両額動脈を天とし、両頸動脈を地とし、日との耳前動脈を人として、頭角・口歯・耳目の三種の天を候う。中府とは五蔵なり。五蔵の気を調えようと欲するなら天地人の三部九候を取定せよ。
2022-05-15
【黄帝内経太素24-4 虚実補瀉】
刺における唯一つの方は有余を瀉し不足を補すことを言う。有余に五あり、不足にも五あり。神に余あり不足あり、気に余あり不足あり、血に余あり不足あり、形に余あり不足あり、志に余あり不足あり。およそこれら十者はその気が不等である。
神の有余は笑って休まず、神の不足は憂う。血気が未併(まだ相集まっていないこと)であれば五蔵は安定しており、神が不定になれば邪が形(からだ)に客し洫泝として豪毛を起こしても、未だ経絡に入っていないので命じて神の微と曰う。神の有余はその小絡の血を瀉し出血させ、深く刺すとことなく、その大経に中ててはならない。神気はそれで平らになる。神の不足はその虚絡を見つけ、切して気を至らせ、刺して気を利し、その血を出すことなく、その気を洩らすことなく、その経を通ずれば神気はそこで平らかになる。微を刺すには、按摩して釈(と)かすことなく、針を着けても刺すことなく、気を足に移せば神気が復す。
気の有余は喘咳・上気し、不足は息利・少気する。血気が未併であれば五蔵は安定しており、皮膚の微病であり、命じて白気微洩と曰う。気の有余はその経隧を瀉し、その経を傷つけることなく、その血を出すことなく、その気を洩らしてはならない。不足の場合は、その経隧を補し、その気を出してはならない。微を刺すには、按摩して釈(やめ)ることなく、針を出して視て曰う「我将に深くせん!」それで人は必ず改まる。精は自ら伏し、邪気を乱散せしめて、休息せしめることなく、気を腠理から洩らしてしまえば真気が相得られる。
血の有余は怒り、不足は悲しむ。血気が未併であれば五蔵は安定しており、孫絡が外に溢れると経に留血を起こす。血の有余はその盛経を瀉してその血を出し、不足はその虚経を補し、針をその脈中に入れ久しく留め、血が至り脈が大になれば、疾(すみや)かにその針を出して血を洩らすことのないようにする。留血を刺すには、その血絡を見つけ刺してその血を出し、悪血が経に入ってその病にならないようにする。
形の有余は腹脹して溲(=小便)は不利となり、不足は四肢が用いられなくなる。血気が未併であれば五蔵は安定しており、肌肉が濡動するのを命じて微風と曰う。形の有余はその陽経を瀉し、不足はその陽絡を補す。微を刺すには、分肉の間を取り経に中てることなく、その絡を傷つけることなく、衛気が復するを得れば邪気は散りはてる。
志の有余は腹脹・飡洩し、不足は厥を起こす。血気が未併であれば五蔵は安定しており、骨節が動ずるだけである。志の有余は然筋(=然谷)の血を謝してその血を出し、不足はその復溜を補す。未併を刺すには、その経に中てることなく、邪を立ちどころに虚しめるにある。
2022-05-16
【黄帝内経太素24-5 虚実所生】
虚実の生じる所以について岐伯が述べる。
気血が并(あつ)まり、陰陽が傾き、気が衛で乱れ血が経に留まり、血気が離居して一実一虚となり、血が陰に并まり気が陽に并まると驚狂を為し、血が陽に并まり気が陰に并まると熱中を為し、血が上に并まり気が下に并まると煩悶・喜怒し、血が下に并まり気が上に并まると気が心を乱し善忘する。
血気は温を喜び寒を悪む。寒で渋って流れ得ず、温で消え失せる。この故に、気が并まる所は血虚となり、血が并まる所は気虚となる。有を実と為し、無を虚と為す。故に、気が并まれば血が無く、血が并まれば気が無い。ここで、血と気が相失するが故に虚というのみ。絡と孫脈がともに経に輸すときは、血と気と并まれば寒という。血と気と并まり上に走ると太厥を為し、厥すと暴死する。復た反えれば生かせるが、反えらなければ死である。
陰と陽には皆輸・会があり、陽から陰に注ぎ、陰が満つると外にゆき、陰陽が旬平となってその形を充たし、九候が一の如くであれば、命じて平人と曰う。邪が至り生ずるときは、或は陰より生じ或は陽より生ずる。その陽に生ずるときは風・雨・寒・暑から得たのであり、その陰に生ずるときは飲食・居処・陰陽・喜怒から得たのである。
風雨が人を傷つけるときは、先ず皮膚に客して孫脈に伝入し、孫脈が満つると絡脈に伝入し、絡脈が満つると、大経脈に輸し、血気と邪が并まり分腠の間に客してその脈は堅・大となる。故に実と曰い、実は外が堅く充満して按ずることもできず、按ずると痛むのである。
寒湿の気が人に中たると、皮膚は収(しま)り肌肉は堅く、営血は渋り衛気が去ってしまう。故に虚と曰い、虚すと懾辟として気が不足し血が渋り、按ずると気が足りて温まり、快然として痛みがなくなる。
喜怒の不節は陰気の上逆を起こし、上逆すると下虚となり、下虚すると陽気がここに走る。故に実と曰う。喜ぶと気が下がる。悲しむと気消を起こし、消えると脈が虚す。冷たいものを飲食すると寒気が蔵に浸み込み、蔵の血が渋るとその気は移り去る。故に虚と曰う。
『経』に曰く「陽虚則外寒、陰虚則内熱、陽盛則外熱、陰盛則内寒」と。陽は気を上焦より受けて、皮膚・分肉の間を温める。そこで、寒気が外にあれば上焦が不通となり、不通となると寒のみ独り外に溜まる故、寒慄を起こす。労倦して形気が衰少し穀気が盛んでないと、上焦が行らずに下脘が不通となり、胃熱が中に浸み込むため内熱する。上焦が通利せずに皮膚が緻密となり、腠理が閉塞し通わず、衛気が洩越できず、故に外熱する。厥気が上逆すると、寒気が胸中に積もって出なくなる。出ないと温気が去り、寒のみ独り溜まって血が凝渋する。血が凝渋すると脈が通わず、その脈が盛大となって濇る、故に中寒する。
陰と陽とに血気が并まり病形がすでに成った場合、これを刺すには経隧を取り、血は営で取り、気は衛で取り、用形は四時の少多・高下に因る。
血気が并まり病形がすでに成り、陰陽が相傾いた場合の補瀉は、実を瀉すには気盛のときに針を入れ、針と気とともに入れてその門を開き、その戸を通りよいようにし、針と気とをともに出せば、近気は失せることなく遠気は来る。これを追うと謂う。
十二経脈は三百六十五節に絡し、節に病が有れば必ず経脈が被り、五蔵の五脈がに生じる十種の虚実のみにとどまらぬ。が、五蔵は六府と表裏を為し得ており、支節に絡して各々虚実を生じている。その病の居所を視て随って調えるのであり、病が血にあれば脈で調え、病が気にあれば衛で調え、病が肉にあれば分肉で調える。病が筋にあれば筋で調え、その下及び急(ひきつ)れたところを燔針にて劫刺し、病が骨にあれば卒針・薬熨し、病でその所在が知らなければ両蹻(=足少陰の別)の上を取り、身形に痛みがあり、九候に病がなければ繆刺し、病が左にあって右脈が病んでいれば巨刺する。必ず謹んでその九候を察すれば針道は備わるのである。
2022-05-17
【黄帝内経太素25-1 熱病決】
寒に傷ついて熱病を発するのを傷寒と呼ぶ。病むこと六、七日で或いは癒え或いは死す。癒える場合も皆十日以上かかる。この所以を岐伯が述べる。
巨陽(=太陽)には諸陽が属し、その脈は風府に連なる。故に諸陽の気を主るのである。人が寒に傷つくと病熱となるが、熱が甚だしくても死ぬことはない。陰陽の気が寒に両寒して病むと必ず死を免れない。
傷寒にかかると一日目は巨陽が受ける。故に、頭項・腰背が皆痛む。二日目は陽明が受ける。陽明は肉を主り、その脈は鼻を挟み目に絡すので身熱、鼻乾して眠ることができない。三日目は少陽が受ける。少陽は骨を主り、その脈は脇を循り耳に絡すので胸脇痛し耳聾する。三経が皆病を受けても未だ府に入通してなければ、汗を出して癒すべきである。四日目は太陰が受ける。太陰脈は胃中に布し嗌に絡すので腹満、嗌乾する。五日目は少陰が受ける。少陰脈は腎を貫き肺に絡し舌本に繋がるので、口熱、舌乾して渇する。六日目は厥陰が病を受ける。厥陰脈は陰器を循り肝に絡すので煩満、嚢縮する。三陰三陽・五蔵六府が皆病み、営衛が行らず府蔵が不通になれば則死ぬ。ただし、寒に両感しない場合は、七日目に巨陽病が衰えて頭痛が少し癒え、八日目に陽明病が衰えて身熱が少し癒え、九日目に少陽病が癒えて耳聾が微かに聞こえはじめ、十日目に太陰病が衰えて腹は元のようになり、食飲を思い食べようと欲し、十一日目に少陰病が衰えて渇は止み、満はなくなり舌乾も癒えて咳し、十二日目に厥陰病が癒え嚢が少腹より微かに下がり、大気は皆去り、病は日増しに癒える。
治すには、三日未満であれば汗して治すべきであり、三日に満ちると洩して治すべきである。
熱病が癒えても時には遺となることがある。これは、熱が甚だしいのに強いて食したためである。病がすでに衰えても熱が隠れており、その穀気と相薄(せま)るためであり、熱が相合して遺となるのである。遺を治すには、その虚実を視てその逆順を調えると、必ず治すことができる。
熱病の禁については、病熱が少し癒えたとき肉を食すとぶり返し、多食すると遺となること、これがその禁である。
寒に両感した場合の脈の応と病形については、寒に両傷した場合、病んで一日目は巨陽と少陽がともに病み、頭痛・口乾・煩満する。病んで二日目は陽明と太陰がともに病み、腹満・身熱・不食・譫語する。病んで三日目は少陽と厥陰がともに病み、耳聾・嚢縮・厥し、漿水が入らなくなり人事不省となり、六日目になって死ぬ。陽明は十二経の長であり、その気血が盛んであるが故に、人事不省となってから三日目にその気が尽き、死ぬのである。
2022-05-18
【黄帝内経太素25-2 熱病説】
病温で汗が出てもたちまち復た熱してきて、脈は躁・疾となり、狂言・不能食になることがある、これを陰陽交と曰い、交すれば死である。
人から汗が出る所以は皆穀から生じたのであり、穀が精を生ずるによる。ここで邪気が骨肉で交争し汗が出るのは、邪が却(しりぞ)き精が勝ったためである。精が勝てば当然食べられるようになり、熱も復た出ることはないはずである。熱は邪気であり、汗は精である。ここで汗が出てもたちまち復た熱が出てくるのは邪が勝ったためである。食が不能なのは精がないためであり、精がないから癉(=熱)になり、しかも留まっているのでそれが尽く立ちどころに傷つくはずである。『熱論』に「汗が出ても脈が尚お躁・盛なら死す」と曰い、今、脈と汗とが相応してないのは、その病に勝てないためであり、死は明らかである。狂言するのは、志を失したからで、志を失すれば死である。命に三の死(不能食・脈躁・失志)を見ても一の生を見ることなく、癒えたように見えても必ず死ぬ。
病で身熱し汗が出て煩満し、煩満が汗によっても解けないことがある。汗が出て身熱するのは風であり、汗が出て煩満が解けないのは厥であり、この病を風厥と曰う。
巨陽は気を主る故、先ず邪を受ける。少陰と表裏を為し、熱を得ると上に行き、行くと厥を起こすのである。その治は、表裏ともに刺して湯を飲ませる。労風は常に肺下にあって、その病たるや、よく仰むき、目が見えにくく、唾(つばき)が涕(なみだ)のようで、悪風しすぐに振寒する。これを労中の病とも為す。治は、伏せたり仰向いたりするのを救う。巨陽の精を引くと三日、中は五日、不精は七日目ごろに青黄の涕を少し出し、その状は粘い膿のようで大きさは弾丸ぐらい、口中もしくは鼻孔中より出る。出なければ肺が傷ついており、肺が傷ついておれば死あるのみ。
偏枯は身が偏って使えずに痛むが、言語は変わらず知も乱れず、病は分腠の間にある。臥したまま針にて取れ。その不足を益し、その有余を損なわず復すべきである。痱(=中風)の病になると、身は無痛で四肢が収まらない。知の乱れは甚だしからず、その言語が微かでも知れば治る。甚だしく言うことができなければ治せない。
病が先に陽に起こり、後に陰に入ったときは、先にその陽を取り、後にその陰を取れ。浮で取れ。
熱病で三日目に気口が静で人迎が躁は、諸陽の五十九を取れ。以てその熱を瀉してその汗を出し、その陰を実してその不足を補せ。身熱が甚だしいのに陰陽が皆静であるのは刺してはならない。それでも刺すべきときは急いで取れ。汗が出なければ洩らせ。刺してはならにというのは、死徴があるからである。
熱病で七・八日目に脈口が動・喘し眩があれば急いで刺せ。その上、汗が自出しておれば浅く手指間を刺せ。熱病で七・八日目に脈が微・小、病者が血尿で口中が乾くときは一日で死す。脈が代であると一日で死す。熱病で已に汗を出しても脈が尚お躁・喘で、その上、復た熱してくるのは刺を用いてはならない。喘が甚だしいと死す。熱病で七・八日目に脈が躁でなくなり、躁であっても数でなければ三日後までに汗が出るはずだ。三日しても汗が出なければ四日目に死す。未だ刺してなくとも刺を用いてはならない。
熱病で先ず身が濇り倚し煩悶し脣・嗌が乾けば、取るに第一針(=纔針)を用い、五十九刺せ。膚脹・口乾・寒汗も同じく取れ。
熱病で嗌乾・多飲・善驚し臥しても不安定であれば、膚肉に取り、第六針(=員利針)を用い、五十九刺せ。肉を脾に索(もと)めるべきで、木に索めてはならない。木は肝だからだ。
熱病で胸脇痛・手足躁すれば、筋間に取り、第四針(=鋒針)で四逆・筋辟・目浸に用いよ。筋を肝に索めるべきで、金に索めてはならない。金は肺だからだ。
熱病で先ず膚痛・窒鼻・兌面するときは、皮に取り、第一針(=纔針)を用い、五十九刺せ。苛軫鼻は皮を肺に索めよ。火に索めてはならない。火は心だからだ。
熱病で数驚し瘈瘲し狂を起こせば、脈に取り、第四針(=鋒針)を用い、急いで有余を瀉せ。癲疾、毛髪の抜ける場合も同じ。血は心に索めるべきで、水に索めてはならない。水は腎だからだ。
熱病で身重・骨痛・耳聾し好瞑するのは骨に取り、第四針(=鋒針)を用い、五十九刺せ。骨病・齲歯・耳青(=乳様突起炎?)なども骨を腎に索めよ。土に索めてはならない。土は脾だからだ。一に脊強も云う。
熱病で痛む所が知らず、自ら収めることができず、口乾し陽熱が甚だしく、陰に少し寒があるのは、熱が髄にあるためだ。死であって不治。
熱病で頭痛し、顳顬(こめかみ)と目の脈が瘈(ひきつ)り善く衄(=鼻血)するのは厥熱である。第三針(=鍉針)を用い、有余・不足を視よ。寒熱・痔も取れ。
熱病で体重・腸中熱は第四針(=鋒針)を用い、その輸及び下の諸指間を取れ。気を胃絡に索め得気せよ。
熱病で臍を挟み痛急し脇胸満すれば、湧泉と陰陵泉に第四針(=鋒針)を用いて取れ。嗌にも針せよ。
熱病で汗がまさに出ており、脈が順で汗すべきときは、魚際・太淵・太都・太白に取れ。瀉せば熱は去り、補せば汗出る。汗出の甚だしきは踝上の横脈を取って止めよ。
熱病で已に汗が出たのに脈がいつまでも躁・盛なのは、陰脈の極であって死す。
熱病で脈がいつまでも盛・躁で汗が出ないのは、陽脈の極であって死す。脈の盛・躁が、汗出て静となれば生きる。
熱病で刺すべきでない場合が九つある。一に曰く、汗が出ずに大顴(鼻の左右の高所)が発赤して噦するのは死である。二に曰く、洩するのに腹満が甚だしいのは死である。三に曰く、目が不明となり熱は已まないのは死である。四に曰く、老人・嬰児で熱して腹満すれば死である。五に曰く、汗が出ずに嘔し下血すれば死である。六に曰く、舌本が爛れ熱が已まなければ死である。七に曰く、咳して衄し汗が出ず、出ても足まで至らないのは死である。八に曰く、髄熱は死である。九に曰く、熱して痙すれば死である。熱して痙するとは腰折・瘈瘲・歯の切迫するなり。およそこれら九の場合は刺すべきではない。
いわゆる五十九刺とは、両手の外内側に各三で計十二痏、五指間に各一で計八痏、足も亦これと同じ、頭の髪を入ること一寸の傍三分に各三で計六痏、さらに髪を入る三寸の辺に五で計十痏、耳の前後と口の下に各一、項中に一で計六痏、癲上に一。(合計すると63になるが、59とは大数を挙げたものと解する)
2022-05-19
【黄帝内経太素25-3 五蔵熱病】
肝熱病は小便が先ず黄となり腹痛・多臥・身熱し、熱が争うと狂言及び驚を起こし、脇痛し手足が躁して安臥できない。庚申に甚だしくなり、甲乙に大汗し、気逆すると庚申に死す。手足の厥陰・少陽を刺せ。その頭痛して貞貞たるは脈に引いて頭を衝くからである。
心熱病は先ず不楽となり数日して熱してき、熱が争うと卒に心痛・煩悶・喜嘔・頭痛・面赤し汗は無い。壬癸に至り甚だしくなり、丙丁に大汗し、気逆すると壬癸に死す。手少陰・太陽を刺せ。
脾熱病は先ず頭重・顔痛・心煩・むかつき・身熱し、熱が争うと腰痛して用いられず、腹満し洩して頜(おとがい)痛する。甲乙に甚だしく、戊己に大汗し、気逆すると甲乙に死す。足太陰・陽明を刺せ。
肺熱病は先ず泝然と起毛して悪風・舌上黄・身熱し、熱が争うと喘咳し痹が胸・膺・背に走り大息できず、頭痛は甚だしからず、汗が出て寒する。丙丁に甚だしく、庚辛に大汗し、気逆すると丙丁に死す。手太陰・陽明を刺し、大豆の如きを出血せしめると立ちどころに癒える。
腎熱病は先ず腰痛・胻痠・苦渇し、しばしば飲食して身熱し、熱が争うと項痛して強ばり胻寒して且つ痠し、足下熱して言うを欲せず、その項痛は貞貞・澹澹たり。戊己に甚だしく、壬癸に大汗し、気逆すると戊己に死す。足少陰・太陽を刺せ。
肝熱病は左頬が先ず赤く、心熱病は顔が先ず赤く、脾熱病は鼻が先ず赤く、肺熱病は右頬が先ず赤く、腎熱病は頤が先ず赤くなる。病が未発でもその赤色が現れたら刺せ。名づけて未病を治すと曰う。
熱病で部所より起きると、その期になれば癒える。刺し反しても三周すれば癒える。重逆すると死す。
当に汗が出るべしとは、病が勝つところの日に至って汗が大出するをいう。
諸々の熱病を治すには、前もって寒水を飲ませてから刺せ。必ず寒衣せしめて寒多き所に居(お)くと体が冷えて止む。
熱病で先ず胸・脇が痛み手足が躁すれば、足少陽・手太陰を刺せ。病が甚だしければ五十九刺せ。熱病で先ず手・臂が痛めば、手陽明・太陰を刺して汗を出せ。熱病で頭・首より始まるは、項の太陽を刺して汗を出せ。熱病で先ず身重・骨痛・耳聾・好瞑すれば足少陽を刺し、病が甚だしければ五十九刺せ。熱病で先ず眩冒・熱・胸脇満すれば足少陰・少陽・太陽の脈を刺せ。
色が顴(ほおぼね)に現れると骨熱病である。現われが未夭の日に汗を出して時を待てば自ら癒える。厥陰脈と争見すれば死であり、期するに三日を過ぎることはない。その熱病の気が内では腎に連なっているからだ。
少陽の脈色が頬に現れると筋熱病である。現われが未夭の日に汗を出して時を待てば自ら癒える。少陰脈と争見すれば死す。
三椎の下間は胸中の熱を主り、四椎の下間は膈熱を主り、五椎の下間は肝熱を主り、六椎の下間は脾熱を主り、七椎の下間は腎熱を主る。現われが項上の三椎陥の中で頬下に逆椎してあると大瘕であり、牙車を下れば腹満であり、椎後(大椎の両側)は骨痛であり、頬より上ると膈上である。
2022-05-20
【黄帝内経太素25-4 五蔵痿】
五蔵の熱が痿(=麻痺)を起こす所以ついて述べる。
肺は身の皮毛を主り、心は身の血脈を主り、肝は身の筋膜を主り、脾は身の脂肉を主り、腎は身の骨髄を主る。故に、肺気が熱し肺葉が焦げると、皮毛及び膚が弱急・薄着して痿辟を生じる。心気が熱すると下脈が厥して上り、上ると下脈が虚す。虚すと脈痿を生じ、枢(=関節)が折挈しひ脛緩み、地を踏むに耐えられなくなる。肝気が熱すると胆洩のため口苦して筋膜が乾く。膜が乾くと引き攣れ、発すると筋痿となる。脾気が熱すると胃が乾して渇し、肌肉が不仁を起こし、発すると肉痿となる。腎気が熱すると腰・脊が挙がらなくなり、骨枯して髄減じ、発すると骨痿となる。
肺は蔵の長であり、心の蓋を為す。失亡する所、求めて得られぬ所があり、発すると肺が喝し、喝すると肺熱・葉焦する。故に、「五蔵は肺熱・葉焦に因り発して痿辟となる」とはこの謂である。
悲哀が太甚であると胞絡が絶する。絶すると陽気が内で動じ、発すると心下が崩れ、しばしば洩血する。故に『本病』で曰く「大経の空虚は発すると脈痹を為し、伝えて脈痿となる」と。
思想が無窮で所願がかなわずに、意を外にまぎらわせ入房が太甚であると、宗筋が弛緩し、発すると筋痿となり、白淫を為すに及ぶ。故に『下経』に曰く「筋痿は使内より生ず」と。
湿に浸され水を用いるを事とし、若しくは留まる所、居る処で湿に遭い、肌肉が濡漬し痹となって不二、発すると肉痿となる。故に『下経』に曰く「肉痿は湿地にて得る」と。
遠行し労倦して大熱に逢って渇することがある。渇は陽明の気の内代で熱が腎に合したためである。腎は水蔵であって、水が火に勝てずに骨枯して髄虚し、故に足で身を支えられなくなり、発すると骨痿となる。故に『下経』に曰く「骨痿は大熱より生ず」と。
肺熱は色が白くて毛が敗(いた)み、心熱は色が赤くて絡脈が溢れ、肝熱は色が蒼くて爪が枯れ、脾熱は色が黄で肉が濡動し、腎熱は色が黒くて歯が槁(か)れる。
『論』に「痿を治すには陽明を取れ」と言う。陽明は五蔵六府の海で、宗筋を潤すことを主る。宗筋は肉骨を束ねて関節を利する。衝脈は経の海で、溪谷で滲灌することを主り、陽明と筋陰で合して宗筋の会を統べ気街にて会する。しかも陽明が長であり、皆帯脈に属して督脈に絡す。故に陽明が虚すと宗筋が緩み、帯脈が引かずに足が萎えて用いられなくなるのである。
治は、各々それらの栄を補してそれらの輸を通じ、その虚実を調え、その逆順を和す。則ち、宗筋脈の骨肉がその時受けた日を以てすれば病は癒える。
2022-05-21
【黄帝内経太素25-5 瘧解】
カイ瘧(=間欠熱)は皆風より生ずるが、その蔵蓄、発作に時が有る。逆の発し始めは先ず豪毛を起こし欠伸して寒慄を作(おこ)す。寒慄すると鼓頷して腰背が痛み、寒が去れば外内皆熱して頭痛し破れるが如く、渇して飲を欲する。
発する所以は、陰陽が上下で交争し、虚実が交互に作って陰陽が相移る。陽が陰に并(あつ)まると陰実して陽明が虚し、陽明が虚すと寒慄・鼓頷し、巨陽が虚すと腰脊・頭・項痛を起こす。三陽が俱に虚すと陰気が勝ち、陰気が勝つと骨寒して痛むのは寒が内に生じたためである。故に内外が皆寒してくるのである。陽盛になると外熱し、陰虚になると内熱し、外内皆熱すると喘して渇し飲を欲する
これを得たのは夏に暑より傷つけられ、熱気が盛んとなり皮膚の内、腸胃の外に隠れたためであり、これは営気の舍る所となる。このため、人が汗を出し空疏となって腠理が開く。秋気を得、汗の出たところに風に遭い、あるいは浴水するなどに因り、邪気が皮膚の内に舍り、衛気と並んで居す。衛気は昼日陽を行るので、この気も陽を得ると出て、陰を得ると内に薄する。この故に日に作るのである。
その邪気の舍が移って陰に内薄し、陽気だけが独り発して陰邪は内着し、陰と陽とが争って出られず、以て日をあけて作るのである。
邪気が風府に客し、膂(=背骨)を循り下り、衛気と一日一夜に風府で大会し、その明日から日に一節を下るため、その発作が遅くなる。これは先ず脊背に客し風府に至る毎に腠理が開く。開くと邪が入り、邪が入ると病が作り、これを以て日の発作にやや遅さを益すのである。そこで、風府に出るのに日に一椎ずつ下ると二十一日目に尾骶骨に下至し、二十二日目に脊内に入り、膂の脈に注ぎ、そこから気が上行し九日目に缺盆の中に出、その気が日ごとに高くなる故、日々早さを益す。それが五蔵に内薄し募原に横連すると、その道が遠くなり、その気も深まり、その行りも遅くなり、衛気と俱に行り供に出ることができなくなる。故に日をあけて作るようになるのである。
風には一定の府がない。衛気が発する所で必ずその腠理が開き、邪気が舍る所がその府の高さである。経に留まるその処に衛気が相順えば経絡は沈んで内薄し、故に衛も留まり、そこで作るのである。
2022-05-22
【黄帝内経太素25-6 三瘧】
寒瘧、温瘧、癉瘧(たんぎゃく)の三瘧について述べる。
夏大暑に傷つき汗が大出し、腠理が開発したところに夏気の冷たい小寒に遭い、寒が迫り腠理・皮膚の中に蔵(かく)れ、それが秋になって風に傷つくと病盛になる。その寒は陰気で、風は陽気であり、先に寒に傷ついた後で風に傷ついたので、先に悪寒し後に発熱する。これを寒瘧と曰う。
先に風に傷つき後に寒に傷つくと、先に発熱し後で悪寒し、また時を以て作る。これを温瘧と曰う。この中でただ発熱するのみで悪寒しないのは、陰気が絶し、陽気が独発したものであり、則ち少気・煩悶し手足熱して欲嘔する。これを癉瘧と曰う。
『経』に曰く、「熇熇の気は刺す無く、渾渾の脈は刺す無く、漉漉の汗は刺す無かれ」と。これは、その病が逆しているときは未だ治療すべきでないことを言っている。そもそも、瘧が発し始めて陽気が陰に并まる。この時に当っては陽虚、陰盛であり、外に気が無いので先ず寒慄する。陰気が逆して極まると復た陽に出てゆき、陽と陰が復た外に并まり、陰虚、陽実となり、熱して渇する。その瘧気が陽に并まると陽勝となり、陰に并まると陰勝となり、陰勝は寒、陽勝は熱となるのである。瘧とは風・寒の気で常に病んでいるわけではなく、極まると復た至り、病が発すると火熱・風雨の当たるべからざるが如くなる。故に『経』に曰く、「まさにその盛時には敢えてする勿れ、必ず毀(やぶ)れん、その衰に因れば事は必ず大昌せん」と。その瘧が未発のときは陰が未だ陽に并まることなく、陽も未だ陰に并まっておらず、そこで調えれば真気は安泰となり、邪気は亡ぶ。故に工(=良医)といえど、それが已に発しその気が逆しているときは治療できない。
瘧がまさに発し陰陽がまさに移ろうとするときは、必ず四肢より始まり、陽が傷つくと陰が従う。故に、その時に先だってその処を堅束し、邪気が入り得ず陰気が出られないようにし、後で孫絡に盛堅な血が現れるのを取り除く。これは素早く行い、未だ并まっていないうちに取る。
瘧気は必ず交互に盛んとなり交互に虚となり、気の所在に随う。病が陽にあると熱し脈は躁となり、陰にあると寒し脈は静となり、極まると陰陽が俱に衰え、衛と気とが相離れて病が休み、衛と気が集まると復た病むのである。
二日おき或は数日たって発し、或は渇し或いは渇しないのは、邪気と衛気とが六府に客していて時を相失い、相得ることができないからである。瘧とは陰陽が交互に勝つものであり、勝ちが甚だしく或いは甚だしくないために、或いは渇し或いは渇しないのである。
『論』には「夏暑に傷つくと秋必ずカイ瘧となる」とあるが、必ずしもそうとは言えない。これは、四時に応じてはいるものの、その病の異形さが四時で異なっているからである。秋に病めば寒が甚だしく、冬に病めば寒は甚だしくなく、春に病めば風を悪み、夏に病めば汗が多い。
温瘧とは冬風に中たり得たもので、寒気が骨髄の中に蔵(かく)れ、春に至り陽気が大発しても邪気は出られず、大暑に遭い脳髄が融け脈肉も消沢して腠理が発洩し、このとき力を用いると邪気が汗とともに出ていく。この病は腎に蔵れており、その気は先ず内から出て外にゆき、このように陰虚、陽盛、則ち病むのである。衰えると邪気が復た反入し、入ると陽虚になり、陽虚すると寒するのである。故に、先に熱して後で寒する。名づけて温瘧と曰う。
癉瘧とは、肺にもともと熱気が有って身に盛んなため、逆気して上り中気が寒し、外に洩れず、力を用いると腠理が開き、風寒が皮膚の内、分肉の間に舍り発したもので、発すると陽気が盛んなため気盛が衰えずに病む。その気は陰に反りゆかず、故にただ発熱するのみで悪寒しない。寒気は内は心に蔵れ、外は分肉の間に舍り、人を消沢し脱肉せしめる。命じて癉瘧と曰う。
2022-05-23
【黄帝内経太素25-7 十二瘧】
瘧で渇はなく日をあけて作(おこ)るのは足太陽を刺し、渇して日をあけて作るのは足少陽を刺し、温瘧で汗が出ないのは五十九刺を為す。
足太陽瘧は人に腰痛・頭重せしめ、寒を背より起こし、先寒・後熱して渇しめるが、渇が止んでも汗が出ると癒え難い。日に郤中(=委中)を刺し出血せしめる。
足少陽瘧は人に身体怠惰せしめ、寒は甚だしからず熱も甚だしからず、人に見られるのを嫌い、人に会うと心が惕惕然とし、熱が多くなると汗をかき、汗出が甚だしくなる。足少陽を刺す。
足陽明瘧は人に先寒洒泝せしめ、洒泝として寒が甚だしく、久しくたつと熱が出て、熱が去り汗が出ると日・月の光や火気に会うのを喜び、快然とする。陽明の跗上を刺す。
足太陰瘧は人を不楽にせしめ、好く太息し食を嗜まず、多寒で熱すると汗が出、病が至ると善く嘔するが、嘔が已むと衰えてくるので即(すぐ)に取る。
足少陰瘧は人に嘔吐せしめ、甚だしいときは多寒熱でも熱多・寒少で、戸を閉じていたいと欲するようになり、この病は癒え難い。
足厥陰瘧は人に腰痛・少腹満・小便不利で淋の如からしめるが、淋ではなく、収まると小便は繁くなり、意は恐懼し、気が不足して腸中が邑邑となる。足厥陰を刺す。
肺瘧は人に心寒せしめ、寒甚・熱間で喜驚して幻想をいだかしめる。手の太陰・陽明を刺す。
心瘧は人に煩心せしめ、甚だしいと清水及び寒を多く欲しがり、寒は甚だしからず熱が甚だしい。手少陰を刺す。
肝瘧は人の色を倉倉然とせしめ、大息しその状は死者の如きである。足厥陰を刺して出血させる。
脾瘧は人に寒を病み腹中を痛ませ、熱すると腸中を鳴らして汗を出さしめる。足太陰を刺す。
腎瘧は人に洒洒とし腰背を痛ましめ、宛転して大便が出難く、目は詢詢然とし手足が冷える。足太陽・少陰を刺す。
胃瘧は人に疸を病ませ、喜く飢えても食がとれず、食すと支満し腹大になる。足の陽明・太陰の横脈を刺し出血させる。
瘧が身に発し方(まさ)に熱せんとするにあたり、跗上動脈を刺しその空を開けばたちどころに冷えて来る。
瘧で方に寒せんと欲するときにあたっては、手陽明・太陰と足陽明・太陰を刺す。
諸瘧で脈が現れていない場合は、十指間を刺し、出血させ血を去れば必ず癒える。先ず身が熱するとき赤くて小豆の如きものを視つけたらば尽く取れ。
十二瘧は各々その発する時を同じくしない。その病形を察してそれが何脈の病かを知り、その病の発する時に先だって食事頃に刺す。一刺で衰え、二刺で知(わか)り、三刺で癒える。癒えなければ舌下の両脈(=廉泉)を刺し出血させ、癒えなければ郤中の盛経を刺し出血させ、項以下の脊を挟むところを刺せば必ず癒える。
瘧を刺すには必ず先にその病の前発作について問い、先にこれを刺す。
頭が先に痛み、重ければ先ず頭上を刺し、さらに両頷・両眉間から出血させる。
先に項・背が痛めば先にその治療穴を刺す。
先に腰・脊が痛めば郤中を刺し出血させる。
先に手・臂が痛めば先ず陰陽十指間を刺す。
先に足胻が痠痛すれば先ず足陽明十指間を刺して出血させる。
風瘧が発し汗が出て悪風すれば三陽経の背輸の鬱血を刺す。
胻の痠痛が甚だしく按ずるこもできないのを名づけて胕髄と曰い、纔針を用いて絶骨に纔してその血を出せば立ちどころに癒える。身体が小痛すれば諸陰の井を刺し出血さすことなく、日をあけて一刺する。
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