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私の千日回峰行

  • yokando2
  • 2023年7月29日
  • 読了時間: 62分

私の千日回峰行


私、洋漢堂主人は以前、京都の宇治で鍼灸院を開いておりました。そのころ、週に1回程度、宇治から坂本まで電車で行き(運賃190円)、比叡山の千日回峰行の道を、1000回を目標に歩いておりました。2011年2月6日が初回で、雪の中の行軍でした。32回目が2012年7月8日で、数日後に名古屋に引っ越しましたので、その日が最後となりました。1000回には遠く及びませんでしたが、神聖な場所であり、いくつか不思議な体験もしております。



2011/02/06 千1・比叡山坂本駅


きょうから、比叡山の千日回峰行のルートを歩くことにします。一週間に1回で年間約50回、およそ20年で満行できる計算です。休日を利用するか、あるいは木曜の午前中に走破すれば午後の治療には間に合います。


千日回峰行のルートには、無動寺谷回峰道と飯室谷回峰道の2ルートがあり、地図で計測すると両ルートとも約15kmの行程です。しかし、坂道で曲がりくねっておりますから20kmはゆうにあると思われます。


無動寺谷回峰道は無動寺谷の明王堂を出発し、東塔、西塔、峰道、横川(よかわ)、横川本坂、日吉大社、無動寺本坂をへて明王堂に帰るコースです。


飯室谷回峰道は飯室谷の不動堂を出発し、西教寺、日吉大社、東塔本坂、東塔、西塔、峰道、横川、飯室本坂をへて不動堂に帰るコースです。


平安の昔から、偉い雲水さんも、さほどではない雲水さんも、それぞれがそれぞれに苦労して駆け巡ったコースです。大阿闍梨の酒井さんが知った比叡山の四季の移り変わりの真実を、自分も肌で直に感じ、阿闍梨さんと共感しながら歩くことになります。


初回のきょうは、無動寺谷回峰道を逆方向に回りました。宇治に住んでいる私は、JRで桃山駅から比叡山坂本駅まで行きますので、この比叡山坂本駅が私の回峰行の出発点であり終点となります。きょうは、山中は雪深くて歩き辛く、また、行者道で、一般の道ではないので何度もコースを間違えました。平地は初春の陽気でも比叡山の中はまだまだ冬でありました。自宅に帰ってリュックに入れていた携帯電話の万歩計を見ると37779歩と表示されていました。


2011年2月06日

7:20 比叡山坂本駅

9:40 横川中堂(道元得度の碑に参拝)

11:40 釈迦堂(釈迦如来に参拝)

12:30 根本中堂(薬師如来に参拝)

13:00 明王堂(不動明王に参拝)

14:10 比叡山坂本駅(歩行時間6時間50分、37779歩)


写真(sen1)

比叡山坂本駅は私の千日回峰行の始点で終点です。



2011/02/10 千2・飯室不動堂


2回目のきょうは、飯室谷回峰道を逆方向に回りました。朝5時10分に家を出て1時間後にはもう千日回峰行の起点の比叡山坂本駅に到着しました。比叡山坂本駅に降りたときは真っ暗でしたが徐々に明るくなり、飯室不動堂に着いたときには朝陽も差しておりました。


不動堂には不動明王立像が安置されていますが、秘仏のため拝見できません。心眼で拝見しました。隣の家屋には木魚があり、その横に、ご用の方はこの木魚を敲いてくれ、と書いてあります。ああ、この木魚を敲けば、大阿闍梨の酒井さんが「どうぞ」と声を掛けてくれて、中で美味しい紅茶を入れてくれるという、あの木魚なんだと、感じ入りました。


横川に着くと雪がちらついております。下を見ると、新雪の上に靴跡がひとつ続いております。私がきょう二番目の入山者ということです。この靴跡は、横川から西塔まで続いておりました。西塔の釈迦堂でにぎり飯を食べながら、ふと頭を触ると、なんと髪の毛が凍りついています。やはり、山の中は厳冬なのです。


2011年2月10日

6:11 比叡山坂本駅

7:30 飯室不動堂(不動明王に参拝)

8:30 横川中堂(道元得度の碑に参拝)

9:40 釈迦堂(釈迦如来に参拝)

10:20 根本中堂(薬師如来に参拝)

11:22 比叡山坂本駅(歩行時間5時間11分、34451歩)


写真(sen2)

飯室不動堂。隣に大阿闍梨の酒井さんが住まわれている長寿院があります。



2011/02/13 千3・恵心堂の阿弥陀様


比叡山はさすがに霊峰です。きょう、不思議なことがありました。


雪道に足を取られながらやっとのことでたどり着いた横川で、初めて恵心院を訪ねました。左に庫里、右に源氏物語の碑、その間の雪に埋もれた石畳の先に神々しく黄金色に輝くお堂が目に入りました。近づいて見ると、神々しいと思ったのはお堂の中の阿弥陀様でした。背広を着た50歳前後の男性がお堂の中にいらっしゃったので、こんな大雪の中、熱心な方だと思い、「いつも来られているのですか」と声を掛けたところ、返ってきた答えがこうです。


「私は、月に1、2度来ております。実は、奇妙な縁がありまして来るようになったのです。1年前、夢にここの阿弥陀様が現れて、『お堂を毎月開けるようにしてくれ』と頼まれたのです。ここのお堂はそれまで6年間、庫里の坊様がいくつかの堂を掛け持ちで管理されていらっしゃったため、このお堂を開けておくことできなかったようです。この夢を見たとき、私は富山に住んでおりましたから、『遠いので無理です』と答えると、阿弥陀様は『一度だけ延暦寺を訪れてくれ、あとの道筋は立てておくから』とおっしゃいます。それで、延暦寺の本部を訪ね、事の仔細をお話したのです。そしたら、『寺にも不思議な能力をもっている者がおるが、在家にもおるのだなあ。よろしい、お堂の鍵を渡すので、来れるときに来てお堂を開けてもよろしい』とのこと。それで、月に1、2度来ては、お堂を開けるようにしているのです」


私「毎月、富山からここまでは大変でしょう」


男性「実は、今は大津に越して来ているのです。ところで、五戒をご存知ですか」


私「聞いたことはありますが、どんな内容かは忘れてしまいました」


男性「五戒は不殺生(ふせっしょう)、不偸盗(ふちゅうとう)、不邪淫(ふじゃいん)、不妄語(ふもうご)、不飲酒(ふおんじゅ)の五つで、お釈迦様が在家の方が守るようにとおっしゃったことがらです。不殺生は・・・。お堂を開いていると、参拝に来られる方とお話することがあります。あの夢の中で阿弥陀様から、『参拝に来られる方にお釈迦様の教えを伝えてください。まず五戒について聞いて、知らないという答えだったら五戒について説明してあげなさい。もし五戒について知っているということだったら八斎戒について説明してあげなさい』といわれているものですから」


私「あなたは、昔から信仰が篤かったのですか」


男性「いいえ、ごく普通に生活しておりました。ここに通うようになって、もう1年ですから、寺のひとから坊さんにならないかと誘われているのですが、夢の中で阿弥陀様に『在家のままでよろしい。お経など読む必要はない。お釈迦様の教えを守って暮らしていけばよろしい』といわれていますのでお断りしています」


私「いつまで続けられるのですか」


男性「転勤がなければしばらく続けたいとおもっております。少なくとも来月までは・・・」


このとき、警備のひとが来られたため、私の方から話を切り上げ、失礼しました。


2011年2月13日

7:16 比叡山坂本駅

7:30 生源寺(最澄生誕の地)

7:40 滋賀院(天海創建)

7:54~8:10 日吉神社(西本宮・宇佐宮・白山宮・三ノ宮・牛尾宮・東本宮)

8:32 八王子金大巌

8:43 神宮禅院跡

9:04 衣掛岩

9:55 法然上人得度跡

10:00 作礼の辻(大黒堂前)

10:25 明王堂(不動明王・二童子坐像に参拝)

10:55 作礼の辻(四方八方に礼拝します)

10:57 根本中堂(最澄作・薬師如来立像に参拝後一周する)

11:15 大講堂

11:16 前唐院(円仁のの住坊)

11:19 戒壇院

11:25 阿弥陀堂

11:32 山王院(智証大師円珍の住坊、千手観音立像)

11:40 浄土院(最澄御廟)

11:55 にない堂

11:57 釈迦堂(最澄作・釈迦如来立像に参拝)

12:33 玉体杉(回峰行者はここでだけ座ることができます)

13:15 横川中堂(聖観世音菩薩)

13:25 元三大師御廟

13:33 四季講堂(元三大師良源の住坊)

13:40 道元禅師得度跡

14:00 恵心院(阿弥陀如来立像に参拝)

14:15 恵心僧都の墓

15:00 神宮禅院跡

15:24 日吉神社(三ノ宮・牛尾宮遥拝所)

15:46 比叡山坂本駅(歩行時間8時間30分、46254歩)


写真(sen3)

横川の恵心院。左が庫里で右が阿弥陀様のまつられているお堂。



2011/02/20 千4・元三大師のおみくじ


慈覚大師円仁廟、栄西禅師修行の地、瑠璃堂、青竜寺、定光院、安楽律院など、きょうはメインのコースから少し外れたところまで足をのばしてみました。そのため、歩行時間が9時間を超えてしまいました。1週間前の雪も一部残ってはいるものの大方は解けてしまい、陽射しには春が感じられました。先週開いていた恵心堂の扉は、きょうは閉じられており、あの黄金の阿弥陀様には対面できませんでした。扉の外からの参拝となりました。


延暦寺中興の祖の慈恵大師良源、通称元三大師は、観音菩薩に一心にお祈りをして偈文(げもん)を授かったといいます。これが「おみくじ」の起源だそうです。その元三大師が建てたと伝えられる西教寺で、その「おみくじ」なるものを引いてみました。幸先のよい籤文です。


六十六番(吉)

前途を改変して去る(今までの悪いところは改善されてすっかり良くなります)。

月桂また円かなるに逢う(月は新月から満月に向かい始め輝きが増してきます)。

雲中禄に乗じて至る(雲の中から資産が舞い降りてきます)。

凡事先んずるに宜しかるべし(何事も先手先手に行うのがよろしいでしょう)。 


2011年2月20日

7:16 比叡山坂本駅

7:40~7:50 日吉神社(西本宮・宇佐宮・白山宮・三ノ宮・牛尾宮・東本宮)

8:11 八王子金大巌

8:20 神宮禅院跡

8:29 衣掛岩

9:00 聖尊院堂

9:12 慈覚大師円仁廟

9:28 法然上人得度跡

9:37 根本中堂(薬師如来立像に参拝)

9:52 栄西禅師修行の地

10:10 別当大師光定廟

10:30 釈迦堂(釈迦如来立像に参拝)

10:45 相輪塔

10:48 弥勒石仏

11:03 瑠璃堂

11:25 青竜寺(法然修行の地、阿弥陀如来坐像に参拝)

12:11 玉体杉

12:47 横川中堂(聖観世音菩薩に参拝)

13:07 定光院(日蓮修行の地)

13:27 道元禅師得度跡

13:39 恵心院(阿弥陀如来立像に参拝)

13:45 覚超僧都の墓

13:57 恵心僧都の墓

14:25 飯室不動堂(不動明王立像に参拝)

14:45 安楽律院

15:40 西教寺(元三大師ゆかりのおみくじを引く)

16:26 比叡山坂本駅(歩行時間9時間10分、47925歩)


写真(sen4)

恵心堂。扉の向こう側に黄金の阿弥陀様がまつられています。



2011/02/24 千5・五戒と八斎戒


きょうの比叡山は霧の中でした。


恵心院も霧につつまれておりました。昔、恵心院で修行した恵心僧都源信は、例のおみくじの元三大師の高弟で、「往生要集」の著者として有名ですが、それ以上に徳の高いお坊さんであったようで、「源氏物語」宇治十帖に登場する横川の僧都はこの源信がモデルだそうです。


私は、大津在住の男性にこの恵心院で五戒を授けられて以来、その意味についてかみしめております。そもそも、五戒と八斎戒とは、お釈迦様が在家の信者のために定めた生活規則です。


五戒(ごかい)は、


1、不殺生(ふせっしょう) - 生き物を殺してはいけない。

2、不偸盗(ふちゅうとう) - 他人のものを盗んではいけない。

3、不邪淫(ふじゃいん) - みだらなセックスをしてはいけない。

4、不妄語(ふもうご) - うそをついてはいけない。

5、不飲酒(ふおんじゅ) - 仕事中に酒を飲んではいけない(洋漢堂の甘い解釈)。


で、八斎戒(はっさいかい)は、上の五戒に、


6、歌舞音曲にうつつを抜かしてはいけない。

7、高級なベッドで寝てはいけない。

8、間食をしてはいけない。


の3つの戒を足したものです。あたりまえといえばあたりまえで、守るのはやさしそうですが、ちょっと油断をすると犯してしまいそうな戒です。大津の男性が神がかりして伝えてくれたメッセージですから、きちんと守っていかなければなりません。


2011年2月24日(木)霧

6:50 比叡山坂本駅

7:20~7:25 日吉神社(西本宮・宇佐宮・白山宮・三宮宮・牛尾宮・樹下宮・東本宮)

―無動寺谷坂―

8:37 大乗院(親鸞修行の地)

8:43 明王堂(不動明王に参拝)

9:10 根本中堂(薬師如来立像に参拝)

9:24 戒壇院

9:28 山王院(千手観音立像に参拝)

9:33 浄土院(最澄御廟)

9:40 にない堂

9:43 釈迦堂(釈迦如来立像に参拝)

9:46 ミロクの石仏に参拝

―峰道―

10:18 玉体杉

―峰道―

10:52 横川中堂(聖観世音菩薩に参拝)

11:05 恵心院(阿弥陀如来立像に参拝)

―横川行者道―

11:31 三石岳(676m、眺望なし、東の悪路を下る)

―横川行者道―

12:05 神宮禅院跡

12:14 八王子金大巌

12:24 日吉神社

12:42 比叡山坂本駅(歩行時間5時間52分、37755歩)


写真(sen5)

霧の中の恵心堂。右手にあるのが源氏物語横川僧都遺跡の碑。



2011/03/03 千6・横川法語


きょうの比叡山は冬に逆戻りです。新芽の上に雪が積もっておりました。きょうは阿弥陀堂の裏から登ったところにある智証大師円珍の墓まで足を伸ばしてみました。源信の恵心院も再び冬化粧です。


源信(942-1017年)は大和葛城郡の人で父は卜部正親。7歳で父と死別し、9歳で比叡山の良源に師事、15歳にして法華経の八講師に任ぜられました。30歳のころから横川の恵心院に住み、母の諫言「後の世を渡す橋とぞ思ひしに世渡る僧となるぞ悲しき、まことの求道者となり給へ」に従い、名利を捨て、仏道修行と著作に専念しました。著述に「往生要集」、「横川法語」、「真如観」、「菩提集」などがあり、とくに「往生要集」は中国の宋でもかなりの評判を呼びました。「往生要集」のエキスは「横川法語」の中に込められています。


横川法語 ~ それ、一切衆生、三悪道をのがれて、人間に生まるる事、大なるよろこびなり。身はいやしくとも畜生におとらんや、家まずしくとも餓鬼にはまさるべし。心におもうことかなわずとも、地獄の苦しみにはくらぶべからず。世のすみうきはいとうたよりなく、人かずならぬ身のいやしきは、菩提をねがうしるべなり。このゆえに、人間に生まるる事をよろこぶべし。信心あさくとも、本願ふかきがゆえに、頼まばかならず往生す。念仏もの憂けれども、唱うればさだめて来迎にあずかる功徳莫大なり。此のゆえに、本願にあうことをよろこぶべし。また妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念の外に別の心もなきなり。臨終の時までは、一向に妄念の凡夫にてあるべきとこころえて念仏すれば、来迎にあずかりて蓮台にのるときこそ、妄念をひるがえしてさとりの心とはなれ。妄念のうちより申しいだしたる念仏は、濁にしまぬ蓮のごとくにして、決定往生うたがい有るべからず。妄念をいとわずして、信心のあさきをなげきて、こころざしを深くして常に名号を唱うべし。


2011年3月3日(木)雪

6:11 比叡山坂本駅

6:40-6:45 日吉神社(七宮参拝)

―飯室奈良坂―

7:20 飯室不動寺(不動明王立像に参拝)

―栢木坂―

8:20 恵心院(阿弥陀如来立像に参拝)

8:46 横川中堂(聖観世音菩薩に参拝)

―峰道―

9:18 玉体杉(座って昼食)

―峰道―

9:49 ミロク石仏(弥勒菩薩坐像に参拝)

9:57 釈迦堂(釈迦如来立像に参拝)

10:05 にない堂

10:11 浄土院

10:19 山王院(千手観音立像に参拝)

10:24 阿弥陀堂

10:40 智証大師廟

10:50 西尊院堂(無動寺バス停)

10:53 ケーブル駅

11:05 根本中堂(薬師如来立像に参拝)

―悲田谷道―

11:40 衣掛岩

11:50 神宮禅院跡

11:59 八王子金大巌

12:13 日吉神社

12:31 比叡山坂本駅(歩行時間6時間20分、35430歩)


写真(sen6)

恵心堂の阿弥陀様からの眺め。左手にあるのが源氏物語横川僧都遺跡の碑。



2011/03/03 千7・大護摩


きょうは八王子山の山頂(378m)まで足を延ばしてみました。八王子金大巌の裏の道を登ってすぐです。それから、いつものように根本中堂を経て、ミロクの石仏を過ぎて、峰道を歩いていると、なにやらリズミカルなざわめきが聞こえてきます。「おんころころせんだりまとうぎそわか、おんころころ・・・」


峰道レストランの前で大護摩が行われていました。座って護摩を焚いておられるのが光永圓道大阿闍梨です。36歳という若さで、坊主頭の青さと二の腕の白さが初々しい大阿闍梨です。立印加持のときの声は艶と張りがあり、平安の世だったら、あまたさぶらいける女御更衣たちが噂しあうのではないかと思われます。それから、参列者は回峰行者たちの念珠加持を受けます。薬師如来のマントラである「おんころころせんだりまとうぎそわか」という呪文を唱え、こうべを垂れて受けます。私も念珠加持を受け、そのあとで甘酒と里芋をいただきました。回峰行者の中に酒井大阿闍梨がおられないか捜しましたが、残念ながら、いらっしゃいませんでした。


きょうの恵心堂は開いておりました。お堂にあがり、大津の男性と語り、阿弥陀様を身近に拝見させていただきました。この阿弥陀様は1mに満たない立像で、このとき偶然訪れた京都芸大の先生によると、後背の模様から鎌倉中期から後期の作製ではないかということです。衣の黄金は光輝いており、近年修復されているようですが、お顔から胸にかけては黄金が黒ずんでおり、鎌倉当時のままではないかと推定されます。お顔はやや面長で、目は細く、端正なやさしさがあり、よくみると口元に細い黒いひげが描かれています。手は、右手を持ち上げ、左手を下げ、両手とも母指と中指でOリングを作っておられます。足は左足が右足よりもやや前に出ています。


大津の男性は、この恵心堂の扉を開けるという使命を達成するために、ついに長年勤めた会社を辞められたそうです。今は、大津市の嘱託に採用されて、どうにか食い扶持はあるとのことで、これも阿弥陀様の導きなのでしょう。今まではレンタカーで月に一回通われていましたが、これからは、毎週末、バスで通ってこられるそうです。


さて、恵心堂を後に、飯室の不動寺に下りますと、なんと、下の方から石段を酒井大阿闍梨が上がってこられました。やや頼りない歩きかただなあ、と思っていたら、あっという間に私の横を通りすぎて、例の木魚のある屋敷の中にすっと入られました。その後を、あたふたと、雑誌記者風の男性が追いかけて入って行かれました。


2011年3月13日(日)晴

7:16 比叡山坂本駅

7:45 日吉神社(七宮参拝)

8:13 八王子金大巌

8:16 八王子山(378m)

8:38 衣掛岩

9:23 根本中堂(薬師如来立像に参拝)

9:45 山王院(千手観音立像に参拝)

9:53 釈迦堂(釈迦如来立像に参拝)

9:56 ミロク石仏(弥勒菩薩坐像に参拝)

10:15 峰道レストラン前(大護摩)

11:06 玉体杉

11:36 横川中堂(聖観世音菩薩に参拝)

11:47 道元禅師得度跡

12:00 恵心院(阿弥陀如来立像に参拝)

12:59 飯室不動寺(不動明王立像に参拝)

13:57 比叡山坂本駅(歩行時間6時間41分、32802歩)



写真(sen7)

大護摩。おんころころせんだりまとうぎそわか、おんころころ・・・



2011/03/18 千8・止観路


私の千日回峰行のコースは、実際に行者が歩かれる道を推定して設定し、かってに「止観路」と名づけ、止路と観路の2コースを設けています。止路は飯室谷回峰行ルートの簡略版で、不動堂の不動明王像を含めた七仏と日吉神社の七宮を参拝するコースです。観路は無動寺谷回峰行ルートの簡略版で、明王堂の不動明王像を含めた七仏と日吉神社の七宮を参拝するコースです。


七仏は、不動堂の不動明王立像または明王堂の不動明王坐像に根本中堂の薬師如来立像、山王院の千手観音立像、釈迦堂の釈迦如来立像、ミロクの石仏、横川中堂の聖観世音菩薩像、恵心院の阿弥陀如来立像を加えた七仏です。日吉神社の七宮は、西本宮、宇佐宮、白山宮、三宮宮、牛尾宮、樹下宮、東本宮の七宮です。


私の千日回峰行は最低、不動堂か明王堂の不動明王像と根本中堂の薬師如来像の二仏を参拝すればOKということにしています。ですから、不動明王像と薬師如来像を参拝したのち、京都の赤山禅院や大原の方へ降りてもいいことにしています。


きのうは観路を逆方向に歩きました。山の中は再び雪でした。横川から西塔までの峰道に積もった新雪の上には人の足跡はなく、縦10cm幅5cmぐらいのけものの足跡がずっと続いていました。ミロクの石仏の手前でけものの足跡はなくなっていましたが、釈迦堂で参拝して、にない堂を過ぎたところで、左手に2頭の鹿を発見しました。遠くから私の方を見ております。親子の鹿のようです。けものの足跡はこの鹿たちだったのかもしれません。


ところで、釈迦堂の前で手を合わせていたら、住職らしい女性の方が近寄って来られ、「どうぞ中にお上がりください」と申されます。その住職は穏やかな笑顔を浮かべておられ、酒井大阿闍梨をどこかとなく髣髴させる方でした。午後の診療が控えているため、「ありがとうございます。きょうは先を急ぎますので失礼します」と言って、お堂を後にしました。そのあと、すぐに後悔しました。「ああ、お釈迦様を身近に拝見できたのになあ。まあいいや、またいつか拝見できるだろう。恵心堂の阿弥陀様のように。」


2011年3月17日(木)逆観路、雪

6:50 比叡山坂本駅

7:15 日吉神社(七宮参拝)

7:41 八王子金大巌

―横川行者道―

8:57 恵心院(阿弥陀如来立像に参拝)

9:04 横川中堂(聖観世音菩薩に参拝)

―峰道―

10:12 ミロクの石仏(弥勒菩薩坐像に参拝)

10:16 釈迦堂(釈迦如来立像に参拝)

10:34 山王院(千手観音立像に参拝)

10:45 根本中堂(薬師如来立像に参拝)

11:13 明王堂(不動明王坐像に参拝)

―無動寺谷坂―

12:23 比叡山坂本駅(歩行時間5時間33分、33248歩)


写真(sen8)

にない堂の前の道。奥の方で鹿の親子がこちらを見ています。



2011/03/24 千9・如信さん


きょうの山の中の風は大変冷たく、水溜りには氷が張っており、峰道は霜柱が立っておりました。しかし、山の中にも春は確かに来ていて、1週間前、鹿の親子がいて雪景色だったにない堂の前の道の雪はすっかりなくなっており、鹿たちの姿もありませんでした。


ところで、再び不思議な話です。とあるご婦人に、恵心堂の阿弥陀様が夢に出て、そのお告げに従い、堂の扉を毎月開き、今は大津市で働いていらっしゃる大津在住の男性の話をしたところ、このご婦人、しばらく絶句したあと、「実は、・・・」と話し出されました。


「実は、以前、大津市に如信さんという女性の住職さんがおられ、私、そのお寺に通っていたことがあるのです。お寺の名前は無量仏寺とかだったと思うのですけれど、もう如信さんも亡くなられたので寺もなくなっているのではないでしょうか。如信さんは、普通の生活をされていた方で、あるとき畑で仕事をされていたときに、突然、阿弥陀様が降りてこられたそうです。そして、その阿弥陀様が如信さんの手を動かして何か文字を書かれたのだそうです。如信さんには読めないものですから、どこかの大学の先生に解読してもらって、そのことがきっかけで、そのとき阿弥陀様から授かった使命を果たすために、ご主人とは別れ、仏門に入られたんです。私もずいぶん懇意にさせていただきました。あるとき、如信さんが、私に、自分のあとを継いで、その使命を果たしてもらえないか、とおっしゃるんです。私には家庭もありましたので、お断りしました。・・・もう、如信さんが亡くなってずいぶんになるのですが、自分はこんなに全身が痛み、動くこともままならぬ身になってしまっています。実は、今、診てもらっている病院の先生が、この先生も修行をされている先生で不思議な治療をされるんですけれど、先日、私に、その使命を果たせば、痛みは全てなくなるよ、と言われたのです。どうしましょう・・・」


実は、このご婦人自身も不思議な能力をお持ちの方なのです。あるとき、その無量仏寺とかいうお寺で、数珠を手に持ったときに、数珠が勝手に動きだしていろいろな形になったのだそうです。如信さんによると、それはかなりの修行を積んだ者でないと会得できない術だったとのことです。また、厳寒に伏見稲荷の滝に打たれたときにも、周りの人たちはぶるぶる震えているのに、自分は、臍下丹田のあたりがか~っと熱くなり、ちっとも寒さを感じなかったそうです。その他にもいろいろな霊的経験をされているようです。


2011年3月24日(木)止路、晴

6:11 比叡山坂本駅

6:36 日吉神社(七宮参拝)

―飯室奈良坂―

7:24 不動堂(不動明王立像に参拝)

―中尾坂―

8:13 恵心院(阿弥陀如来立像に参拝)

8:24 道元禅師得度跡

8:34 虚子の塔

8:37 一念寺跡

8:40 横川中堂(聖観世音菩薩に参拝)

―峰道―

9:44 ミロクの石仏(弥勒菩薩坐像に参拝)

9:48 釈迦堂(釈迦如来立像に参拝)

10:07 山王院(千手観音立像に参拝)

10:20 根本中堂(薬師如来立像に参拝)

―悲田谷道―

11:11 八王子金大巌

11:41 比叡山坂本駅(歩行時間5時間30分、32555歩)


写真(sen9)

にない堂の前の道。すっかり雪も消え、鹿の親子の姿もありません。


【PS】

3月24日のブログで紹介しました如信さんですが、1993年の「宗教と現代」に関連する記事が載っておりました。それによると、


宗教法人無量寿仏会の開祖、梅村如信師(96歳)の像が完成し、6月18日に本部本堂で披露された。この像は世界的にも例がないといわれる「色彩脱活乾漆像」で、作製したのは、この分野の第一人者、小杉三朗氏。


さっそく、きょうの夕方J市に用があり車で出向いたついでに、JRのJ駅の近くを探すと、その無量寿仏会館を見つけることができました。太陽と月を模った紋章が目印の建物の二階部分が本堂になっており、靴を脱いで上がりますと、正面奥に小さな阿弥陀如来像、左の窓際に八大竜王、そしてその右隣に20年近くの歳月を経た等身大で淡い色彩の如信師像が安置されておりました。参拝させてもらって帰ろうとすると、信者の方が、「きょうはお釈迦様の誕生日ですので、このお釈迦様にお水をかけていかれたらどうでしょうか」といわれますので、玄関前に置かれている小さな釈迦像にお水をかけてから、失礼しました。


この無量寿仏会では、毎月18日(ただし、4、8、12月は8日)に供養の会が行われておりますが、その日以外でも参拝はできるとのことです。この供養の会が開かれている日に、しかも釈迦誕生の日に参拝できたというのは、これもまた、何かの縁なのでしょう。




2011/04/05 千10・行者さん


きょうは10回目の回峰行でした。これで、千日回峰の百分の一を終えたことになります。きょうは止路を逆方向に巡り、智証大師廟から比叡山の山頂の三角点を踏みましたが、その直後、2頭の鹿に出会いました。おそらく先日、にない堂の横の道にいた親子の鹿です。


ところで、いつかは回峰行の行者さんと出会うこともあろう、と思っていましたが、日吉神社できょう初めて会うことができました。3人で、離れ離れでしたので、それぞれのペースで歩かれていたのでしょう。最初の方は礼拝中でしたが、お祈りが終わると「お早うございます」と声をかけてくださいました。二人目の方は、脚を引きずって相当痛そうでしたが、近寄って来られた信者さんに加持をしてあげられました。もう一人の方は無言で通り過ぎていかれました。3人とも若いお坊さんで、これから坂本の町を巡り、無道寺谷の明王堂に帰られるのでしょう。


2011年4月5日(火)逆止路、快晴

6:40 比叡山坂本駅

7:16 日吉神社(七宮参拝)

7:42 八王子金大巌

―悲田谷道―

8:49 根本中堂(薬師如来立像に参拝)

9:14 智証大師廟

9:24 大比叡(848m)

10:04 釈迦堂(釈迦如来立像に参拝)

10:09 ミロクの石仏(弥勒菩薩坐像に参拝)

―峰道―

11:08 横川中堂(聖観世音菩薩に参拝)

11:24 恵心院(阿弥陀如来立像に参拝)

11:34 道元禅師得度跡

11:48 定光院

―道に迷う―

14:35 安楽律院

14:44 不動堂(不動明王立像に参拝)

―飯室奈良坂―

15:36 比叡山坂本駅(歩行時間8時間56分、48348歩)


写真(sen10)

日吉神社。行者さんから加持を受ける女性の信者。



2011/04/08 如信師像


3月24日のブログで紹介しました如信さんですが、1993年の「宗教と現代」に関連する記事が載っておりました。それによると、


宗教法人無量寿仏会の開祖、梅村如信師(96歳)の像が完成し、6月18日に本部本堂で披露された。この像は世界的にも例がないといわれる「色彩脱活乾漆像」で、作製したのは、この分野の第一人者、小杉三朗氏。


さっそく、きょうの夕方J市に用があり車で出向いたついでに、JRのJ駅の近くを探すと、その無量寿仏会館を見つけることができました。太陽と月を模った紋章が目印の建物の二階部分が本堂になっており、靴を脱いで上がりますと、正面奥に小さな阿弥陀如来像、左の窓際に八大竜王、そしてその右隣に20年近くの歳月を経た等身大で淡い色彩の如信師像が安置されておりました。参拝させてもらって帰ろうとすると、信者の方が、「きょうはお釈迦様の誕生日ですので、このお釈迦様にお水をかけていかれたらどうでしょうか」といわれますので、玄関前に置かれている小さな釈迦像にお水をかけてから、失礼しました。


この無量寿仏会では、毎月18日(ただし、4、8、12月は8日)に供養の会が行われておりますが、その日以外でも参拝はできるとのことです。この供養の会が開かれている日に、しかも釈迦誕生の日に参拝できたというのは、これもまた、何かの縁なのでしょう。




2011/04/09 阿弥陀如来立像


実は、昨日、無量寿仏会館にお邪魔する前に、同じJ市にある極楽寺を訪れたのです。目的は、快慶最後の作ではないかと伝えられている阿弥陀如来立像を拝観するためです。


極楽寺は木津川の土手の北方、路地の中にある、あまり目立たないお寺でした。私が訪ねたときは、何かの工事をやっており、大工さんたちが休憩をとっておられました。「お堂に上がれますか」と訊ねると、庫裡の方を指差して、「聞いてみたら」とおっしゃいます。それで、庫裡の玄関のベルを押して、「ごめんください」と言うと、中から、「はい」と返事があり、ご婦人が出てこられ、私が、「阿弥陀さんを拝観したいのですが」と言うと、「どうぞ」とお堂の方に通してくださいました。その像は、本尊の左隣に安置されていました。ご婦人の説明はこうです。


「この阿弥陀様は、鎌倉時代の作ということで、ずっとこの寺にあったのですが、いたんできたので、数年前、修理をしたところ、中から古文書が出てきて、そこに、快慶の法要のことが書いてありました。そして、この仏像を作ったのが快慶の弟子の行快で、完成したのが嘉禄3年(1227年)と書いてありましたので、それで、この仏像は快慶が手がけて行快が引き継ぎ完成させたものらしいことと、快慶の亡くなった年も1227年以前だと分かったんだそうです。」


くだんの阿弥陀如来立像は黒ずんで所々色彩が剥げ落ちていて、小さく、高さ三尺といいますから、例の恵心堂の阿弥陀様と同じくらいの大きさです。快慶は、安阿弥陀仏と自称する程、晩年は三尺前後の阿弥陀像を多数作製しております。画集で見ますと、快慶のその阿弥陀様のお顔はみな写実的でしかもふくよかです。それと違って、恵心堂の阿弥陀様は面長で端正なお顔立ちでした。また、ここの阿弥陀様はちょうど両者の中間くらいの感じで、やや細面で、写実というよりやや抽象化されたお顔立ちであります。三者とも三尺前後の仏様です。したがって、恵心堂の阿弥陀様は、快慶の弟子の行快のそのまた弟子あたりの作ではないかと、私は勝手に想像する訳であります。



2011/04/11 寂庵法話集


「寂庵法話集」は、瀬戸内寂聴さんが京都嵯峨野の寂庵で行った法話をまとめたもので、全12巻のカセットテープになっています。ある縁で、霊感の高いご婦人からお借りしているもので、毎日寝る前に聴いております。我が家には、レコードプレイヤーもカセットデッキもあります。昭和がまだ残っている訳です。


テープの中の寂聴さんは、60代にもかかわらず、声に張りがあり、艶があり、テンポがあり、まことに軽妙です。今、比叡山を歩き回っている私にとって、実に面白いお話ばかりです。大阿闍梨の酒井さんや寂聴さん自身の行の話や、庶民にも分かりやすい天台宗の教義、寂聴さんのハチャメチャ人生に基づく人生訓など、良質な睡眠に導いてくれるエピソードが続きます。


寂聴さんは、50歳のとき、中尊寺で得度し、作家の瀬戸内晴美から天台僧の瀬戸内寂聴に変身しております。私も、ちょうど50歳のときに、気象予報士から鍼灸師に変身しておりますから、寂聴さんの法話には、ほうぼう、いちいち、共鳴しております。その中から、とくに面白かった話は以下のような話で、どういうわけか、どれも3ポイントでまとめられていて、話の内容が理解されやすくなっています。


酒井大阿闍梨の一日の食事(たったのこれだけ):

①じゃがいも2~3個

②昆布と椎茸でダシをとったうどん

③ゴマ豆腐一丁


酒井大阿闍梨が修行中の山道で出合ったもの:

①いのしし

②へび(本人はこれが一番怖い)

③女の幽霊


お年寄りの健康法:

①転ばないこと

②大食らいしないこと

③怒らないこと


寂聴さんが行った修行:

①横川行院での60日間四度加行

②京都大廻り50km

③国東半島の六郷満山峯入


寂聴さんが取り組んできたこと:

①死刑廃止運動(殺生をしてはいけないというお釈迦様の教えの実践)

②尊厳死協会への加入(無意味な延命処置を望まない)

③湾岸戦争反対の8日間断食(なんと断食の4日後に停戦!)


お布施について:

①六波羅蜜のひとつで人に施しをすることを布施といいます

②施す物がなければ、やさしい言葉をかけてあげなさい(心施)

③それもできないひとはただニッと笑いなさい(和顔施)、心がこもっていなくても結構よ




2011/04/12 千11・「比叡」


きょうは観路を歩きました。日吉神社ではきょうから4日間(4月12-15日)山王祭が行われますが、午前中は、西本宮では巫女さんたちが手順を確認されており、参道では露天商が立ち並び始めていて、まだこれからというところでした。


瀬戸内晴美の小説「比叡」には、中尊寺での得度式や横川行院での60日間修行の様子が活写されています。60日間の修行に参加した31人の行院生のうち尼僧は著者を含めて3人。前半の30日間に顕教、後半の30日間に密教の修行を行い、初日と最後の60日目が東塔、西塔、横川の3塔を巡る約30kmの回峰行。その最後の回峰行が無事終了すると、めでたく満行結願となり、それぞれ一人前の天台僧となり、山を降りていきます。


この本のテーマは浮世(すなわち男)からの決別であり、その象徴的なシーンが、最後の回峰行のあと、瀬戸内さんをモデルにした尼僧俊瑛が、大講堂前の鐘楼で鐘を撞くところです。


撞けばよかったのに。

男の遠い声が耳によみがえった。俊瑛は綱を引いた。以外に撞木は重く、よろよろと引きずられそうになって、俊瑛は力いっぱい足をふみ開いた。

「あら、尼さんよ」

若い女が人群の中から囁いている。

撞木がゆっくりと鐘に慕い寄っていく。今にも胴に触れそうになった時、俊瑛はもう一度全身の力をこめて引きしぼった。男は二度そう繰り返したと思いだしていた。

俊瑛の廻りを行道の読経と鐘のこだまが波のように打ち寄せ巡っていた。

撞木はようやく力を抜いた俊瑛の掌から解き放たれた。鞭を当てられた生きもののように、鐘の胴めがけて一気に力強く走り翔んでいった。(完)


私も、きょうは大講堂前で鐘楼の鐘を撞きました。ゴーンと一声が山間に谺したあと、その残響がさざなみのように耳にいつまでも残りました。ふと、鐘を見ますと、「南無薬師瑠璃光如来」という文字が浮き出ています。やはり、薬師さんなんですね。


2011年4月12日(火)観路、快晴

6:11 比叡山坂本駅

6:40 日吉神社(七宮参拝)

―無動寺谷坂―

8:02 明王堂(不動明王坐像に参拝)

8:30 根本中堂(薬師如来立像に参拝)

8:40 鐘楼(鐘を撞く)

8:51 山王院(千手観音立像に参拝、ほぼ工事終了)

9:05 釈迦堂(釈迦如来立像に参拝)

9:10 ミロクの石仏(弥勒菩薩坐像に参拝)

―峰道―

10:12 横川中堂(聖観世音菩薩に参拝、南扉開いていたので拝観)

10:29 道元禅師得度跡

10:38 恵心院(阿弥陀如来立像に参拝)

―横川行者道―

11:37 八王子金大巌

12:12 比叡山坂本駅(歩行時間6時間1分、33999歩)


写真(sen11)

鐘楼。寂聴さんもこの鐘を撞いて浮世から仏の道に入りました。



2011/04/21 千12・「風流懺法」


きょうは止路を歩きました。日吉神社で再び行者さん2人に会いました。先日の行者さん達のようでした。ひと月前までは雪と格闘した山中でしたが、きょうは初夏の陽気で、暑さとの闘いでした。ふだんはコンビニで買った握り飯一個と家でいれた京番茶でやり過ごすのですが、きょうは横川で思わず娑婆の缶ジュースを買って飲んでしまいました。


高浜虚子は33歳のとき、比叡山の横川中堂の政所に滞在して小説「風流懺法」を書いています。短い小説で、大きな盛り上がりもなく淡々と進んでいくのですが、これから若いふたり(一念と舞妓)はどうなっていくのか、と、こちらが気をもんでしまい、余韻が残る小説であります。虚子が滞在した政所は、現在、横川中堂に隣接した空き地に一念寺跡として残っています。


「君は何処の小僧サン」

と余が聞くと、

「大師堂」

と大きな声で答へて、

「どうして昨日湯に入りに来なかつたの」

と友達のやうな口をきく。

「風邪をひいたからサ」

「折角僕がわかしてやつたのにナア」

「君がわかしてくれたのか、其はすまなかつた。此次は這入るヨ」

「僕はあすうちへ帰るのだヨ」

「君のうちはどこ」

「僕のうちは東京、だけど京都に伯母サンがいるの、あすは伯母サンのうちへ行くの」

「伯母サンのうちは京都のどこ」

「祗園町」


数日後、横川を降りた小僧(一念)と余(虚子)は祗園のお茶屋「一力」で再び会うことになるのです。


2011年4月21日(木)止路、晴れ

6:11 比叡山坂本駅

6:37 日吉神社(七宮参拝)

―飯室奈良坂―

7:24 不動堂(不動明王立像に参拝)

7:30 安楽律院(直接横川へ登ろうとするも迷って途中で柏木坂に出る)

9:02 恵心院(阿弥陀如来立像に参拝)

9:09 一念寺跡

9:10 横川中堂(聖観世音菩薩に参拝)

―峰道―

10:21 ミロクの石仏(弥勒菩薩坐像に参拝)

10:25 釈迦堂(釈迦如来立像に参拝)

10:42 山王院(千手観音立像に参拝)

10:57 根本中堂(薬師如来立像に参拝)

―本坂―

11:57 比叡山坂本駅(歩行時間5時間46分、33201歩)


写真(sen12)

一念寺跡。“こぞことし貫く棒の如きもの”(虚子)。



2011/04/25 千13・「土左日記」


「土左日記」は、紀貫之の作とも、その奥さんの作ともいわれていますが、67歳の貫之が任地先の土佐(今の南国市)から京に帰るまでの55日間の日記で、一日も欠かさず記されています。京に生まれ、しかも土佐の異郷で急死した愛児への思慕が執筆の動機になっているそうです。ええ、じゃ、この児は貫之60歳のころの子なのですね。


をとこもすなるにきといふものを、をむなもしてみむとてすなり。それのとしのしはすのはつかあまりひとひのひのいぬのときに、かどです。そのよし、いささかにものにかきつく~


という、承平四年(934年)の12月21日付けの有名な語りで始まり、


~わすれがたく、くちをしきことおほかれど、えつくさず。とまれかうまれ、とくやりてむ。


という、翌年2月16日付けの文で終わる短い紀行文ですが、香川景樹が「其文章の簡雅なる、意味の玄微なる、却て古今序の上に出で、尤天下の冠たるべし」と称揚したほどの名文で、漢心を捨て大和心を取り戻そうとした貫之の心意気は、後世の和歌や文学に甚大な影響は及ぼしております。貫之の人となりについて、校訂者の鈴木知太郎は、「律儀、至誠の人で、人情の厚薄には特に関心が深く、事の真相を見抜く鋭い心を内にひそめながら、それを滑稽や風刺にそらして、あらわに示そうとはしない。寛容をもって事に臨むといった、大人としての風格を十分に具えていた」と評しています。その貫之のお墓が比叡山中腹の裳立山にあるのであります。


きょうの比叡山は晴れたり曇ったり強風が吹いたり霰が降ったりと目まぐるしく天候が変わりました。止路の逆コースを歩いたのですが、無動寺谷坂から裳立山へ登り貫之の墓に詣でてきました。


2011年4月25日(木)逆止路、晴れ時々あられ

6:11 坂本駅

6:43 日吉神社(七宮参拝)

―無動寺谷坂―

7:59 紀貫之の墓(裳立山)

8:30 根本中堂(薬師如来立像に参拝)

8:56 山王院(千手観音立像に参拝)

9:04 釈迦堂(釈迦如来立像に参拝)

9:11 ミロクの石仏(弥勒菩薩坐像に参拝)

―峰道―

10:12 横川中堂(聖観世音菩薩に参拝)

10:22 道元禅師得度跡

10:32 恵心院(阿弥陀如来立像に参拝)

―柏木坂―

11:02 不動堂(不動明王立像に参拝)

―飯室奈良坂―

11:58 比叡山坂本駅(歩行時間5時間47分、37202歩)


写真(sen13)

裳立山。“人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける”(貫之)。



2011/05/08 千14・「出家とその弟子」


きょうは観路の逆コースで、明王堂からの帰りには弁天堂、壺坂山まで足を延ばしました。叡山は今、新緑が美しく、根本中堂のあたりはシャクナゲが満開でした。例の鹿の親子もきょうは弁天堂までやってきていました。


さて、昔、旧制高校の三高の学生がよく読んでいたといわれているのが、西田幾多郎の「善の研究」と阿部次郎の「三太郎の日記」と、それに倉田百三の「出家とその弟子」の三冊でした。その百三26歳のときの作「出家とその弟子」から


唯円:今日はよく晴れて比叡山があのようにはっきりと見えます。

親鸞:あの山には今も沢山な修行者がいるのだがな。

唯円:あなたも昔あの山に永くいらしたのですね。

親鸞:九つの時に初めて登山して、廿九の時に法然様に遇うまでは大てい彼の山で修行したのです。

唯円:その頃の事が思われるでしょうね。

親鸞:あの頃の事は忘れられないね。若々しい精進と憧憬との間にまじめに一すじに煩悶したのだからな。森なかで静かに考えたり漁るように経書を読んだりしたよ。また夕がたなど暮れて行く京の街を眺めてあくがれるような寂しい思いもしたのだよ。


今年は、親鸞が亡くなって750年、法然が亡くなって800年ということで、巷ではいろいろな催しが行われています。二人が修業したここ延暦寺にも、観光客が訪れています。若い親鸞が修業した常行堂は人気スポットになっているようです。


2011年5月8日(日)逆観路、晴れ時々曇り

7:43 比叡山坂本駅

8:10 日吉神社(七宮参拝)

―日吉神社の北側から山に入るも迷い、途中から行者道に合流―

9:58 恵心院(阿弥陀如来立像に参拝)

10:05 横川中堂(聖観世音菩薩に参拝)

―峰道―

11:15 ミロクの石仏(弥勒菩薩坐像に参拝)

11:20 釈迦堂(釈迦如来立像に参拝)

11:43 山王院(千手観音立像に参拝)

11:55 根本中堂(薬師如来立像に参拝)

12:23 明王堂(不動明王坐像に参拝)

12:35 弁天堂

13:42 喜びが丘

14:09 壺坂山(421m)

15:04 唐崎駅(歩行時間7時間21分、31920歩(もっと歩いたはず、測定ミス?))


写真(sen14)

常行堂。若い親鸞が修行したところです。



2011/05/14 千15・パワースポット


比叡山で修業された彰寿庵庵主が推薦されているパワースポットが元三大師のお墓と弁天堂奥の御神木です。奇しくも千日回峰道の北端と南端に当たっています。


元三大師良源は、鬼の姿に化して疫病神を追い払ったという逸話が残り、また観音の化身、おみくじの創始者ともいわれ、かなり霊力のあった坊様のようです。弟子の恵心僧都源信が「往生要集」を執筆するなど、知性的な坊様であったのとは対照的で、源信が「学」の人なら、良源は「術」の人であったのでしょう。元三大師良源の死後、そのお墓がパワースポットになるのは納得のいく話です。


弁天堂の奥にある御神木は、2本の木が根っ子のところで合体しているところから、恋愛成就、夫婦和合のパワースポットになっています。私は、先週初めて弁天堂を訪れたのですが、敷地内に入ると空気が急に変化し、何か霊的なものを感じました。やはり何かスピリチュアルパワーみたいなものがあるのですね。


さて、きょうは観路を歩いた訳ですが、パワースポットの弁天堂奥と元三大師御廟にも脚を延ばしました。日吉神社ではいつもの行者さん二人に出会い、さらに、無動寺谷坂の上りでは坂本市内を巡歴したこの二人に追い抜かれてしまいました。さすがに行者さんは脚力が違います。また、明王堂では、行院での修業を開始されたらしい若い坊様たち20人ほどに会いました。うち4人ほどはうら若い尼様たちでした。


2011年5月14日(土)観路、晴れ

6:11 比叡山坂本駅

6:39 日吉神社(七宮参拝)

―無動寺谷坂―

8:01 明王堂(不動明王坐像に参拝)

8:07 弁天堂

8:36 根本中堂(薬師如来立像に参拝)

8:53 山王院(千手観音立像に参拝)

9:07 釈迦堂(釈迦如来立像に参拝)

9:12 ミロクの石仏(弥勒菩薩坐像に参拝)

―峰道―

10:17 横川中堂(聖観世音菩薩に参拝)

10:29 元三大師廟

10:39 道元禅師得度跡

10:48 恵心院(阿弥陀如来立像に参拝)

―横川行者道を途中から東へ下り日吉神社の北に出る―

11:59 日吉神社

12:18 比叡山坂本駅(歩行時間6時間7分、22792歩(少なすぎる、携帯計測のミス?))


写真(sen15)

弁天堂の奥にある御神木。恋愛成就、夫婦和合のパワースポットです。



2011/05/21 千16・「四千万歩の男」


50歳にして身代を息子に譲って、後半生を日本地図の作成にかけた伊能忠敬(1745-1818年)は、「一身にして二生」の人生を生き分けました。56歳からの17年間、わらじを履いて、一日に20キロを測量しつつ日本全国を歩きまわり、死ぬまでに四千万歩を歩いたといわれています。忠敬の死後3年目、その正確さで欧米世界を驚愕させた「大日本沿海輿地全図」が完成しています。


井上ひさしは小説「四千万歩の男」で伊能忠敬の後半生の17年間を描こうとしたのですが、最初の1年間を書くのに5年間を要してしまいます。この計算でいくと、小説を完結させる頃には井上ひさしは125歳になっていますから、とうてい書き終えることは不可能ということで、蝦夷編、伊豆編の2編でやめてしまいました。それでもかなりの大部の小説になっています。なぜこうなったかというと、伊能忠敬といっしょに一歩一歩あるくように筆を進め、彼が残した「測量日誌」に忠実に従いつつも、彼と同時代の1万人との旅先での出会いを描こう、と考えていたためだそうです。


私の千日回峰行は、一日に約3.3万歩ですから、千日満行しても四千万歩には達しません。それでも、きょうも歩いてきました。日吉神社では、例の行者さん3人に出会いました。


2011年5月21日(土)止路、晴れ

6:11 比叡山坂本駅

6:37 日吉神社(七宮参拝)

―飯室奈良坂―

7:23 不動堂(不動明王立像に参拝)

―柏木坂―

8:20 恵心院(阿弥陀如来立像に参拝)

8:31 道元禅師得度跡

8:49 横川中堂(聖観世音菩薩に参拝)

―峰道―

10:03 ミロクの石仏(弥勒菩薩坐像に参拝)

10:07 釈迦堂(釈迦如来立像に参拝)

10:24 山王院(千手観音立像に参拝)

10:36 根本中堂(薬師如来立像に参拝)

―本坂―

11:36 比叡山坂本駅(歩行時間5時間25分)


写真(sen16)

不動堂の裏にある千日回峰行者のわらじ。酒井大阿闍梨のものかな。



2011/05/31 千17・「願文」


♪♪♪テッペンカケタ♪♪♪テッペンカケタ♪♪♪


きょうの比叡山は、雨上りの緑が鮮やかで、鳥も気持ちよくさえずっていました。うぐいすも上手に「ホーホケキョ」と鳴いていました。そして、この「テッペンカケタ」です。あまり気に留めていなかったですが、きょうは、はっきり「テッペンカケタ」と聞こえたのです。やっと、ほととぎすに会えた、という感じです。


扨、

延暦寺を開いた最澄は、若干19歳で比叡山に入って草堂を構えています。そのときの強い思いを綴ったのが、「願文(がんもん)」として残っています。


「悠々たる三界は純(もっぱら)苦にして安きこと無く、擾々たる四生は唯だ患にして楽しからず。牟尼の日久しく隠れて慈尊の月未だ照さず。三災の危きに近づき、五濁の深きに没む。加以(しかのみなら)ず、風命保ち難く露体消え易し。草堂楽しみ無しと雖も然も老少白骨を散じ曝し、土室闇く狭しと雖も而も貴賎魂魄を争い宿す。彼を瞻(み)、己を省みるに此の理(ことわり)必定せり。仙丸未だ服さざれば遊魂留め難く、命通未だ得ざれば死辰何(いつ)とか定めん。生ける時善を作さずんば死する日獄の薪と成らん。得難くして移り易きは其れ人身なり。発し難くして忘れ易きは斯れ善心なり。是を以て法皇牟尼は、大海の針・妙高の線を仮りて人身の得難きを喩況し、古賢禹王は、一寸の陰(とき)・半寸の暇(いとま)を惜しみて一生の空しく過ぐることを歎ぜり。因無くして果を得るは、是の処(ことわ)り有ること無く、善無くして苦を免るる、是の処り有ること無し。


 是に於いて、愚が中の極愚、狂(おう)が中の極狂、塵禿の有情、底下の最澄、上は諸仏に違い、中は皇法に背き、下は孝礼を闕けり。謹んで迷狂の心に随いて三二の願を発す。無所得を以て方便と為し、無上第一義の為に金剛不壊不退の心願を発す。


 我れ未だ六根相似の位を得ざるより以還(このかた)、出仮せじ。其の一。

 未だ理を照らすの心を得ざるより以還、才芸あらじ。其の二。

 未だ浄戒を具足することを得ざるより以還、檀主の法会に預からじ。其の三。

 未だ般若の心を得ざるより以還、世間の人事の縁務に著せじ。相似の位を除く。其の四。

 三際の中間に修する所の功徳は独り己が身に受けず、普く有識に廻施して悉く皆無上菩提を得せしめん。其の五。

 伏して願くば、解脱の味ひ独り飲まず、安楽の果独り証せず。法界の衆生と同じく妙覚に登り、法界の衆生と同じく妙味を服せん。若し此の願力に依りて六根相似の位に至り、若し五神通を得ん時は必ず自度を取らず、正位を証せず、一切に著せざらん。願くば、必ず今生無作無縁の四弘誓願に引導せられて、周く法界に旋し、遍く六道に入り、仏国土を浄め、衆生を成就し、未来際を尽くすまで恒に仏事を作さん。」


2011年5月31日(火)観路、曇り

6:11 比叡山坂本駅

6:38 日吉神社(七宮参拝)

―無動寺谷坂―

8:11 明王堂(不動明王坐像に参拝)

8:18 弁天堂

8:53 根本中堂(薬師如来立像に参拝)

9:11 山王院(千手観音立像に参拝)

9:28 釈迦堂(釈迦如来立像に参拝)

9:34 ミロクの石仏(弥勒菩薩坐像に参拝)

―峰道―

10:56 横川中堂(聖観世音菩薩に参拝)

11:02 恵心院(阿弥陀如来立像に参拝)

―横川林道―

12:35 比叡山坂本駅(歩行時間6時間24分)


写真(sen17)

根本中堂。若き最澄が「願文」を書き上げた草堂のあった所です。



2011/06/05 千18・「日本往生極楽記」


「加賀国に一の婦女あり。その夫は富人なり。良人亡にて後は、志柏舟にあり、数の年寡居せり。宅の中に小さき池あり。池の中に蓮花あり。常に願いて曰く、この花盛に開くの時、我正に西方に往生せむ。便ちこの花をもて贄として、弥陀仏に供養せむといへり。花の時に遇ふごとに、家の池の花をもて、郡中の諸の寺に分ち供へたり。寡婦長老の後、花の時に当たり恙ありき。自ら喜びて曰く、我花の時に及びて病を得たり。極楽に往生せむこと必せりといふ。即ち家族隣人を招き集めて、別に盃盤を具して、相勧めて曰く、今日はこれ我が閻浮を去るの日なりといへり。言訖りて即世せり。今夜池の中の蓮花、西に向ひて靡けり。」


これは、阿弥陀如来を信仰して生涯を終えた僧や民、45人の伝記を綴った『日本往生極楽記』という書物の最後の節です。作者は慶滋保胤(931以後-1002年)という人で、師の恵心僧都が「往生要集」を出すころと前後して書き上げています。保胤は、学才に秀で、はじめ文書生でありましたが、阿弥陀の信仰篤く、慈仁一遍の日々を過ごし、ついに官吏を辞し、出家して寂心と称しました。比叡山の横川で恵心僧都に師事し、あの藤原道長の戒をとり行うまでになっています。


そこで、きょうは融通念仏の開祖良忍上人が再興された大原の来迎寺まで足を延ばそうと思い、横川から仰木峠に向かいました。仰木峠からは大尾山を経て大原に下ろうと思い、尾根道を北上しましたが、途中で道に迷い、さんざん彷徨した挙句、再び仰木峠に戻り、東海自然歩道を大原へ下りました。着いたときには、もうへとへとで、来迎寺は今度ということにあいなりました。


ところで、きょうは11時ころ恵心堂にたどり着いたのですが、ちょうど大津市の男性が到着されたばかりでした。最初は自家用車、次にレンタカーで、最近はバスで通われているそうですから、恵心堂の阿弥陀様を拝観し、くだんの男性から五戒や八戒を授かりたい方は、日曜日の11時以降来られたらよろしいでしょう。


きょうも野鳥のさえずりは賑やかでした。鍼灸の補瀉でいえば、うぐいすの「ほー法華経」は心に染み入り腎精を滋養してくれそうですから“補”、ほととぎすの「天辺駆けた」は清閑を破って響き渡りますから“瀉”、といったところでしょうか。


2011年6月5日(日)観路、曇り

6:11 比叡山坂本駅

6:45 日吉神社(七宮参拝)

―無動寺谷坂―

8:18 明王堂(不動明王坐像に参拝)

8:24 弁天堂

8:56 根本中堂(薬師如来立像に参拝)

9:14 山王院(千手観音立像に参拝)

9:29 釈迦堂(釈迦如来立像に参拝)

9:36 ミロクの石仏(弥勒菩薩坐像に参拝)

―峰道―

10:46 横川中堂(聖観世音菩薩に参拝)

10:58 恵心院(阿弥陀如来立像に参拝)

11:47 仰木峠(大尾山に向かうも道に迷い引き返す13:25)

―東海自然歩道―

14:22 戸村バス停(歩行時間8時間11分)


写真(sen18)

大原の里。仰木峠から下ったところから。



2011/06/05 千19・「入唐求法巡礼行記」


第19回遣唐使として中国に渡った延暦寺の僧侶円仁は『入唐求法巡礼行記』という、マルコポーロの『東方見聞録』」よりはるかに史的価値の高い旅行記を残しています。ちなみに、この第19回遣唐使は、第20回遣唐使が、大使に任命された菅原道真の進言で廃止されていますから、最後の遣唐使になっています。


円仁は師匠の最澄が少し消化不良気味だった天台宗を究めようと、当初は南の天台山を目指したのですが、中国には無事たどり着けたものの、上陸後は歴史の流れに翻弄されてしまいます。南の天台山には行けず、北の五台山に向かうことになってしまい、さらに、当時の都の長安に着くや、新しく皇帝となった武宗による中国史上最も過酷な仏教弾圧を受け、中国に長く足止めされ、結局10年間滞在することになってしまいます。しかし、それが幸いしたのでしょう、密教を徹底的に習得することができて、帰国後、空海の東密に対し、比叡山に台蜜を打ち立てています。


また、円仁が行った五台山の巡礼行は、後世、比叡山の千日回峰行を生んでいますし、また、京都市の修学院離宮の近くに赤山禅院というお寺がありますが、これは円仁が唐に滞在していた時にお世話になった赤山院の新羅大明神に感謝して、円仁の後継者が建立したものです。


円仁は中国滞在中に幾度か夢を見ました。次はそのひとつです。


「夢を見た。金剛界曼荼羅を描き日本に持っていったところ、大師(最澄)は、その図を開いて見て非常に喜んだ。大師を礼拝しようとしたところ、大師は『自分はどうしてもお前の礼拝を受けるわけにはいかぬ。反対に自分にこそお前を礼拝させてほしい。云々』と云った。曼荼羅を描いて日本に持って行ったことを心から喜んでいただいたのである。」


ところで、京都の夏の風物詩である「大文字の送り火」の「大」という文字が何から来たか知っていますか。実は、円仁こと慈覚大師のご遺徳を偲んでその大師の「大」を拝借したものだそうです。


さて、洋漢堂では、6月12日から8月31日までの夏安吾の81日間は回峰行を控えることにしていますから、きょうは夏安吾前の最後の回峰行となりました。きょうは、しょっぱな、日吉神社でヘビを見た(ヘビが跋扈する季節になりました)のですが、道中、様々な動物に出くわすことに相成りました。


日吉神社では、いつものように行者さんに会って挨拶を交わしました。最近は一人だけです。あとのお二方はどうされているのか心配です。横川に着くと、「クェ-」とか「ホェ-」とかの甲高い声が聞こえます。すると、サルが1匹姿を現しました。1匹ではありません、4、5匹が私の前方を横切り、谷の方にくだっていきました。きょうは比叡山の山頂から京都側に降りたのですが、スキー場の下を歩いていたときに上の方を眺めると、3頭の鹿がスキー場に生えた草を食んでおります。さらに梅谷の方に下るともう一匹の鹿が現れました。いつもの親子の鹿とは違うようです。さらに、小さな渓流には、カエルがおりましたので、このカエルは、ひょっとしたら絶滅するかもしれないと思い、カメラに納めておくことにしました。


2011年6月9日(木)止路、曇り

6:11 比叡山坂本駅

6:38 日吉神社(七宮参拝)

―飯室奈良坂―

7:28 不動堂(不動明王立像に参拝)

―柏木坂―

8:19 恵心院(阿弥陀如来立像に参拝)

8:29 道元禅師得度跡

8:35 元三大師堂

8:42 横川中堂(聖観世音菩薩に参拝)

―峰道―

9:58 ミロクの石仏(弥勒菩薩坐像に参拝)

10:02 釈迦堂(釈迦如来立像に参拝)

10:12 山王院(千手観音立像に参拝)

10:32 根本中堂(薬師如来立像に参拝)

11:12 大比叡(848m)

12:44 赤山禅院

13:12 修学院道バス停(歩行時間7時間1分)


写真(sen19)

赤山禅院。円仁ら遣唐使の航海を守護してくださった新羅大明神が祀られています。



2011/09/04 千20・「融通念仏縁起絵巻」


平安時代の末、比叡山を下りた良忍は大原の来迎院でひたすら念仏をあげておりました。すると、ある日、阿弥陀様が夢に現れて、念仏を唱えると誓った人たちのサイン帳を作るように示唆します。そして、そのようにしておりますと、今度は鞍馬寺の毘沙門天が直々現れて、自らサインするとともに、友達の神様たちにもサインさせます。それで、一気に信者が増えて行ったということです。


これは、『融通念仏縁起絵巻』のなかの一節です。この絵巻を見てから、いつかは、鞍馬寺の毘沙門天と来迎院の阿弥陀様を拝観したいと思っていたのですが、先週、毘沙門天、そしてきょう、来迎院の阿弥陀様を拝観することができました。来迎院の本堂には、阿弥陀様のほかに薬師如来と釈迦如来が鎮座していて、さらにその奥には来迎院ゆかりの3人、円仁、良源、良忍の像も置かれていました。


来迎院の奥には音無しの滝があり、良忍が滝の前でお経を唱えていたら、その声と滝の音が一体となり、滝の音が聞こえなくなったということから、この名前がついたそうですが、私も、「南無不動大師淨円、南無不動大師淨円」と唱えたところ、滝は大雨のため大音量で落下していましたが、やはり私の声と滝の音が共鳴しました。なるほど、です。


きょうは台風一過。午前中雨が止んだので、夏安吾明けの最初の比叡山です。が、途中から再び雨が降り出し、ずぶぬれです。しかし、今回は大原の来迎院で阿弥陀様を拝観できたし、恵心堂の扉は開かれていて阿弥陀様を拝観できたし、横川中堂では聖観音様の前で護摩を焚いておられる酒井阿闍梨の後姿を拝見できましたので、よしといたしましょう。今回の写真はFacebookにもアップしました。


2011年9月4日(日)逆観路、雨

10:48 大原バス停

11:03 来迎院(薬師、釈迦、阿弥陀如来に参拝)

11:19 音無しの滝

12:39 仰木峠

13:40 横川中堂(聖観世音菩薩に参拝)

13:47 恵心堂(阿弥陀如来立像に参拝)

14:07 横川中堂(酒井阿闍梨による護摩)

―峰道―

15:27 ミロクの石仏(弥勒菩薩坐像に参拝)

15:31 釈迦堂(釈迦如来立像に参拝)

15:34 にない堂

15:50 山王院(千手観音立像に参拝)

16:05 根本中堂(薬師如来立像に参拝)

16:25 明王堂(不動明王坐像に参拝)

―無動寺谷坂―

18:08 比叡山坂本駅(歩行時間7時間20分)


写真(sen20)

来迎院。本堂内に薬師如来、釈迦如来、阿弥陀如来が鎮座しております。



2011/09/11 千21・五時


天台宗では、釈迦が35歳で悟りを開いてから亡くなるまでの45年間に説いた教えを5つの時期に分けています。これを「五時」といいます。


①華厳時

釈迦成道ののちの37日間。

華厳経で悟りの内容を説く。


②阿含時

華厳ののちの12年間。

華厳経があまりに難解であったため平易な小乗の教えである阿含経、法句経などを説く。


③方等時

阿含ののちの8年間。

方等経、阿弥陀経、大日経、維摩経、勝鬘経などで小乗と大乗の教えを比較しながら説く。


④般若時

方等ののちの22年間。

般若経で空観(自利)を説く。


⑤法華涅槃時

最後の8年間。

法華経で慈悲(利他)を説き、亡くなる直前に涅槃経で法華経の教えを補完する。


これを眺めていますと、お釈迦さんの活動期間って意外と長いですね。しかも、35歳で悟りを開くまでの修業は、わずか6年です。これはすごいことです。若い人には6年間って長く思えるかもしれませんが、今年で鍼灸歴7年の私にとっては、6年間はあっという間でした。


きょうも恵心堂の扉は開かれていて、大津市の男性とお話が出来ました。そのあと、飯室谷を下って酒井阿闍梨のいらっしゃる不動堂に着くと、そこの扉も開かれていて、信者の方は勝手に上がって、勝手にお参りをされ、勝手に帰って行かれておりました。


今回は、飲み終えた水筒に比叡山の水を入れて持ち帰りました。そして、今、その水でお茶を入れて飲んだのですが、実にやわらかい感じがし、渋みが甘く感じます。美味であります。


2011年9月11日(日)逆止路、晴

06:11 比叡山坂本駅

06:42 日吉神社(七宮参拝)

―沢登り―

07:35 悲田谷

08:32 根本中堂(薬師如来立像に参拝)

08:56 山王院(千手観音立像に参拝)

09:16 釈迦堂(釈迦如来立像に参拝)

09:25 ミロクの石仏(弥勒菩薩坐像に参拝)

―峰道―

10:48 横川中堂(聖観世音菩薩に参拝)

11:05 道元禅師得度跡

11:20 恵心堂(阿弥陀如来立像に参拝)

―柏木坂―

12:20 不動堂(不動明王立像に参拝)

―飯室奈良坂―

13:30 比叡山坂本駅(歩行時間7時間19分)


写真(sen21)

ミロクの石仏。比叡山に残っている仏像で最古のものといわれています。



2011/09/11 千22・四教


“渋柿の渋そのままの甘味かな”


天台宗では、釈迦の教えの内容を蔵教、通教、別教、円教の四教(しきょう)に分けて説明します。この四教は、それぞれ真理に悟入するための四つの門、すなわち有門、空門、亦有亦空門、非有非空門の四門に対応しています。蔵教で有を説き、通教で空を説きます。別教では有と空を説き、円教では有、空、中の三諦(3つの真理)の円融を説きます。


有は仮(け)すなわち差別(しゃべつ)のことで、空は平等です。円教でいう非有非空とは仮にも空にも偏らない中道のことで、三諦が円のごとく融け合い、無明(微細な迷い)がすなわち真如(真理)であると、しています。この円教の説く三諦円融、無明即真如という最高の教えを表現したのが上の俳句であります。


きょうは、電車が40分遅れ、歩き始めると、やぶ道に迷い込み、散々でありましたが、やぶ道で鹿の住処を偶然発見し、また無動寺では明王堂の扉が開いており、不動明王二童子坐像を拝観することが出来ました。ただし、暗いので子細は見えませんでしたが。


きょうも、水筒に比叡山の水を入れて持ち帰り、コーヒーを入れて飲みました。そこで一句。


“珈琲の苦さそのままの甘味かな”


2011年9月15日(木)逆観路、晴

06:51 比叡山坂本駅

07:21 日吉神社(七宮参拝)

途中の登りで道を違え、やぶこぎとなる

10:00 恵心堂(阿弥陀如来立像に参拝)

10:10 横川中堂(聖観世音菩薩に参拝)

―峰道―

11:30 ミロクの石仏(弥勒菩薩坐像に参拝)

11:36 釈迦堂(釈迦如来立像に参拝)

11:54 山王院(千手観音立像に参拝)

12:09 根本中堂(薬師如来立像に参拝)

12:41 明王堂(不動明王坐像に参拝)

―無動寺谷坂―

14:14 比叡山坂本駅(歩行時間7時間23分)


写真(sen22)

無動寺の明王堂。中に入り不動明王二童子坐像を拝観。



2011/09/29 千23・神事能


世阿弥の花伝書によると、能は、聖徳太子が秦河勝に命じて、天下安全、諸人快楽のために66番の遊宴を催したのが始まりで、その秦河勝の遠孫がこの芸を引き継いで、春日と日吉の神職についたそうです。日吉神社では、今でも西本宮拝殿などで、この神事能が奉納されています。


きょうの私の千日回峰行も、日吉神社の西本宮拝殿に参拝し、宇佐宮、白山宮、三宮宮、牛尾宮、樹下宮、東本宮と7宮を巡ってから、スタートしました。


山の中では、ちょっと不思議なことがよく起こります。きょうも、いつものようにミロクの石仏様をさすりながらFTをしたのですが、胃のあたりでstだったので、仏様の足三里のあたりに押し手をつくり、チョンチョンしてみたら、smに変わったので、これでいい、と思いながら、山道を下り始めました。


すると、突然、腹痛がおこりました。山でお腹が痛くなるなんて初めてです。これはどう解釈すればいいのでしょう。ミロクの治療が逆治だったのか、いろいろ悩みましたが、やっと合点がいきました。実は、千日回峰行を始めたころは、必ず、歩いた後に足三里にお灸をすえていたのですが、最近おこたりがちになっていたのです。これを、気付かせてくれたのでしょう。さっそく下山後、左右の足三里に7壮お灸をすえました。不調だったお腹も治り、疲れもどこかへ飛んで行ってしまいました。


能でも、鍼灸と同様、陰陽の気の調和を尊んでいるようです。


「秘儀にいはく。そもそも、一切は陰・陽の和する所の堺を、成就とは知るべし。昼の気は陽気なり。されば、いかに静めて能をせんと思ふ企みは、陰の気なり。陽気の時分に陰の気を生ずる事、陰・陽和する心なり。能のよく出で来る成就の始めなり・・・」~花伝書から


2011年9月29日(木)止路、晴

06:11 比叡山坂本駅

06:41 日吉神社(七宮参拝)

―飯室奈良坂―

07:29 不動堂(不動明王立像に参拝)

―柏木坂―

08:28 恵心堂(阿弥陀如来立像に参拝)

08:47 道元禅師得度跡

08:58 横川中堂(聖観世音菩薩に参拝)

―峰道―

10:16 ミロクの石仏(弥勒菩薩坐像に参拝)

10:21 釈迦堂(釈迦如来立像に参拝)

10:37 山王院(千手観音立像に参拝)

10:58 根本中堂(薬師如来立像に参拝)

―悲田谷道―

11:55 八王子金大巌

12:41 比叡山坂本駅(歩行時間6時間30分)


写真(sen23)

日吉神社の西本宮。奥に見える拝殿で神事能が奉納されます。



2011/10/02 千24・法華大会


早朝のテレビで、桂文珍が鳥越俊太郎に質問します。

「この世を去る時にはどういう言葉を残しますか。」

鳥越俊太郎が答えます。

「家族にありがとう、と言いたいですね。」

さらに、桂文珍が質問します。

「天国で神様に会ったら何と言ってもらいたいですか。」

鳥越俊太郎が答えました。

「いい女がいますよ、と言ってくれたらいいですね。」

桂文珍、絶句。

「・・・。私も早く天国に行きたいですなあ。」


比叡山の西塔では、いつものようにミロクの石仏様をさすりながらFTをしたのですが、きょうは頭のあたりでstだったので、仏様の顖会あたりに押し手をつくり、チョンチョンしてみたら、smに変わったので、これでいい、と思いながら、山道を下りました。


きょうの比叡山は秋晴れで、気分も良く、少し欲を出して、未知の道にトライすることにしました。西塔の学寮裏から東に林道へ降りる道と、三石山下から東の飯室奈良坂へ降りる道です。道といっても今は荒廃して廃道同然です。蜘蛛の巣、やぶこぎ、倒木、小さな谷のトラバースなど、散々でしたが、どうにか走破できました。


大講堂では法華大会(ほっけだいえ)が行われていました。法華大会は、天台宗の古儀にのっとった大法要で、5年に1度行われます。問者と講師が法華経についてやりとりする勉強会だそうです。私が、通りかかったときは、中から、「鐘ええ」と言う声がして、外で待機している人が鐘を3度撞いていました。


2011年10月2日(日)観路、晴

06:47 比叡山坂本駅

07:18 日吉神社(七宮参拝)

―無動寺谷坂―

08:44 明王堂(不動明王坐像に参拝)

09:12 根本中堂(薬師如来立像に参拝)

09:35 山王院(千手観音立像に参拝)

09:50 釈迦堂(釈迦如来立像に参拝)

09:57 ミロクの石仏(弥勒菩薩坐像に参拝)

(この後、学寮裏から林道へ下る)

―林道―

11:29 横川中堂(聖観世音菩薩に参拝)

11:44 道元禅師得度跡

11:54 恵心堂(阿弥陀如来立像に参拝)

(この後、三石山の直下から飯室奈良坂へ下る)

―飯室奈良坂―

13:55 比叡山坂本駅(歩行時間7時間8分)


写真(sen24)

大講堂。法華大会が行われていました。



2011/10/09 千25・愛して始めて


昨日の昼のテレビで、鳥越俊太郎が現役の医師日野原重明(100歳)に質問しています。同じ大学の先輩後輩で話が弾んでいます。先輩たちの話しに私も親近感を覚えます。


「私は、健康には食事と運動と睡眠の3つが大事だと考えているのですが、先生の長寿の秘訣はなんですか。」


日野原先生が答えられます。「私は仕事や研究で忙しいので睡眠時間は少ないし、週に一度は徹夜をするし、運動をする時間もないんですね。それで食事だけは気を付けていて、日に1400カロリーをきちっと守るようにしてますよ。」


ということで、日野原先生はご自分の日々の食事のメニューを紹介されます。ポイントは以下の3点です。


① サプリメントでレシチン(脳を活性化)を補給

② 牛乳を朝と昼に1本ずつ飲む

③ 野菜はカロリーが少ないからふんだんに食べる


また、59歳のとき、よど号ハイジャック事件に遭遇して解放された直後に読まれたマルティン・ブーバーの著書にあった「人は始めることさえ忘れなければ、いつまでも若くある」という言葉に触発されて、何かを始めようと常に考えるようになり、それが、今、100歳で現役をやれているモチベーションになっていると話されました。


要は、長寿の秘訣は、運動でも睡眠でもなく、控えめな食事と前向きな心のようです。先生は、番組の中で自作の曲を披露されました。老人クラブのテーマ曲で、人を慈しみ、何かを始めなさい、しかし耐えることも必要だよ、という趣旨です。


「愛して

始めて

耐えました~」


山はきょうも秋晴れ。ミロクの石仏もFTでstの箇所はなく、心地よさそうでした。横川は珍しく観光客が多く、恵心堂にも次から次に観光客が来訪して、久しぶりに解放された堂の中の阿弥陀様に参拝されていました。大津市の男性は参拝者によく下山の道について聞かれるらしく、私にそのルートを聞かれるので、ノートに画いて説明しましたが、標識もない道ばかりなので、初めての人は分かんないだろうな、正確な地図が必要だなあ、と思いました。


きょうは、いくつかある下山道のうちで一番わかりやすい栢木坂を飯室の方に下りました。飯室の不動堂に着くと、お堂の中に上がり、初めてお不動さんを拝ませてもらいました。そして、ふと左を見ると、壁の上の方に肖像画がかけてあります。間違いなく、酒井大阿闍梨です。お不動さんの憤怒の顔と対照的な暖かい笑顔でありました。


2011年10月9日(日)逆止路、晴

06:18 比叡山坂本駅

06:47 日吉神社(七宮参拝)

―無動寺谷坂―

08:06 紀貫之の墓(明王堂寄りの登り口から)

08:37 根本中堂(薬師如来立像に参拝)

08:54 山王院(千手観音立像に参拝)

09:14 釈迦堂(釈迦如来立像に参拝)

09:24 ミロクの石仏(弥勒菩薩坐像に参拝)

―峰道―

10:32 横川中堂(聖観世音菩薩に参拝)

10:46 道元禅師得度跡

10:56 恵心堂(阿弥陀如来立像に参拝)

―栢木坂―

12:02 不動堂(不動明王立像に参拝)

―奈良坂―

12:58 比叡山坂本駅(歩行時間6時間40分)


写真(sen25)

不動堂の壁にかけてある酒井大阿闍梨の肖像画



2011/10/13 千26・今昔物語


「今は昔、釈迦如来の御母摩耶夫人、父の善覚長者とともに、春の始め二月の八日、嵐毘尼薗の無憂樹下に行き給ふ。婦人薗に至り給て宝の車より下りて、先づ種々の目出たき瓔珞を以て身を飾り給て、無憂樹下に進み至り給ふ。夫人のともに従へる綵女八万四千人なり。その乗る車十万なり。大臣・公卿および百官、皆さまざまに仕へり。その樹の様は上より下まで等しくして、葉しだりて枝に垂れしけり。半ばは緑なり、半ばは青し。その色の照り耀けること、孔雀の頸のごとし。夫人樹の前に立ち給て、右の手を挙げて樹の枝を曳き取らむとする時に、右の脇より太子生まれ給ふ。大きに光を放ち給ふ。」


上は今昔物語の一節で、お釈迦さんが生まれた時の様子が語られています。今昔物語は仏教説話集で、俗世間の話も含まれていますが、付録みたいなものです。天竺(インド)から震旦(中国)、日本へと仏教が伝えられときのエピソードが集められています。編者は誰か分かっていませんが、恐らく平安末期の頃の僧侶だと考えられています。不思議なことに、この今昔物語が世に知れたのは室町時代になってからのことだそうで、それまでどうなっていたのでしょう。


きょうのミロク様は左側頭部が手背センサでstとなり、手の陽経の経筋症です。母指中指センサで手の陽経を調べると小腸経でstでした。さっそく焼針で手の背面尺側を指先から肘まで数か所、チョンチョンしました。


ところで、きょうは、横川から西塔、東塔と歩きましたが、根本中堂は大分県からの観光客でごった返していました。この前も大分県からの団体さんに会いましたから、なぜか延暦寺には大分県からの観光客が多いようです。大分県は天台宗が盛んなのでしょうか。そういえば、延暦寺で修業された瀬戸内寂聴さんは国東半島六郷満山の山歩きをされていました。


帰りは始めて蟻が滝の方へ下りました。蟻が滝から比叡山高校への道は荒廃していて、またまた藪こぎをしてしまいました。


2011年10月13日(木)止路、曇り一時雨

06:11 比叡山坂本駅

06:36 日吉神社(七宮参拝)

―飯室奈良坂―

07:27 不動堂(不動明王立像に参拝)

―中尾坂―

08:29 恵心堂(阿弥陀如来立像に参拝)

08:40 道元禅師得度跡

08:50 横川中堂(聖観世音菩薩に参拝)

―峰道(09:26 玉体杉)―

10:05 ミロクの石仏(弥勒菩薩坐像に参拝)

10:09 釈迦堂(釈迦如来立像に参拝)

10:11 にない堂

10:26 山王院(千手観音立像に参拝)

10:40 根本中堂(薬師如来立像に参拝)

11:30 蟻が滝

12:14 比叡山坂本駅(歩行時間6時間3分)


写真(sen26)

蟻が滝の立札。最澄に諭された大蛇が蟻に戻ったエピソードが書かれています。



2011/10/20 千27・横川中堂


「今は昔、慈覚大師は伝教大師の入室写瓶の弟子として、比叡山受け伝へて、仏法興隆の志ことに深し。されば、別に首楞厳院を建立して中堂を建て、観音、不動尊、毘沙門の三尊を安置したてまつれり。また、唐より多くの仏舎利を持て渡れり。」


上は、今昔物語の一節で、慈覚大師(円仁)が横川に首楞厳院(横川中堂)を建立したときのことが書かれています。創建当時の横川中堂は信長の比叡山焼き討ちで全焼し、さらに秀吉によって再建されるも、落雷で消失してしまい、今のものは昭和46年建造のものです。堂の中には、奇跡的に焼失を免れた当時の聖観音像が安置されております。


きょうからしばらくは、比叡山の登山道マップ作りのための調査を兼ねた山歩きです。伊能忠敬になった気分です。先日、2万5千分の一の地図を買ってきましたので、それに載っている道を実際に歩いてみて存在を確認し、また地図に載っていない道で私が発見した道を加えていこうと考えています。


きょうは、2万5千分の一の地図に載っていてまだ歩いたことのない東塔の駐車場から大宮溪道に下る道と、横川の定光院の手前から仰木へ下る道にトライしてみました。前者は途中途中にテープが貼ってあり簡単に踏破できましたが、後者はテープもなく、道は荒れて倒木や土砂崩れで遮断されており、困難をきわめ、どうにか下山出来たものの、地図上の下山地点よりもかなり北寄りに下りてしまっていました。


2011年10月20日(木)逆止路、晴れ

06:16 比叡山坂本駅

06:42 日吉神社(七宮参拝)

―無動寺谷坂―

**途中、手前の紀貫之墳墓への道からケーブル延暦寺駅へ抜ける**

08:25 根本中堂(薬師如来立像に参拝)

**東塔駐車場から下る**

―大宮溪道―

09:54 横川中堂(聖観世音菩薩に参拝)

10:08 恵心堂(阿弥陀如来立像に参拝)

**定光院の手前から仰木へ下る**

12:12 不動堂(不動明王立像に参拝)

―飯室奈良坂―

13:15 比叡山坂本駅(歩行時間6時間59分)


写真(sen27)

横川中堂。円仁が乗った遣唐使船をイメージして建立されたそうです。



2011/10/27 千28・山王院


「今は昔、智証大師、比叡の山の僧として、千光院といふ所になむ住みたまひける。しかるに天台座主としてかの院に住みたまひける。天皇よりはじめたてまつり、世をあげてたふとび合へること限りなし。」


上は、今昔物語の一節で、智証大師(円珍)が千光院に住んだということが書かれています。千光院を探してみたのですが、比叡山にはないようです。西塔にある山王院には千手観音像が安置されています(いました?)から、私は、この山王院のことを当時は千光院と呼んでいたのではないかと推測しています。


最澄も空海も円仁も円珍も唐に出向いて修業していますが、最澄は半年、空海は2年、円仁は10年、円珍は6年間の滞在でした。円珍は空海の姪を母にもち、頭の尖った独特の風貌で、霊験があり、当時の天皇や民衆からかなり慕われていたようです。円珍の後継者たちは、円仁派との折り合いが悪くなり、円珍没後、山を下りて三井寺に拠点を移しています。


さて、きょうは、裳立山から蟻が滝へ下らず無動寺谷坂へも下らず、両者の中間の道を下ってみました。この道は2万5千分の一の地図には載っていないのですが、そこそこしっかりしている道で、どこに出るのかな、と思っていたら最後は比叡山高校の野球部のグラウンドに出ました。グラウンドの中では高校球児たちが声を出して練習していましたが、グラウンドの外の道は、女子高校生たちが落ち葉を箒で掃いておりました。私が横を通りかかると、さっと顔をあげて、にっこり笑いながら「こんにちは」と声をかけてくれました。これこそ和顔施であります。当然、和顔施を受けた私は幸せになったのであります。


2011年10月20日(木)逆観路、晴れ

07:20 比叡山坂本駅

07:47 日吉神社(七宮参拝)

08:27 八王子金大巌

―横川行者道―

09:55 恵心堂(阿弥陀如来立像に参拝)

10:02 横川中堂(聖観世音菩薩に参拝)

―峰道―

11:22 ミロクの石仏(弥勒菩薩坐像に参拝)

11:26 釈迦堂(釈迦如来立像に参拝)

11:46 山王院(千手観音立像に参拝)

11:56 根本中堂(薬師如来立像に参拝)

12:26 明王堂(不動明王坐像に参拝)

**無動寺谷坂を下るも坂本側紀貫之墳墓入口から

左に入り裳立山への分岐を坂本方面へ下る**

13:24 比叡山高校野球部グラウンド

13:52 比叡山坂本駅(歩行時間6時間32分)


写真(sen28)

山王院。唐から帰国後に円珍が住していたといわれています。



2011/11/03 千29・恵心堂の紅葉


最近暖かい日が続いていますが、さすがに、11月になって比叡の山中もようやく色づき始めました。横川には出店の天幕が張られ、「比叡山もみじ祭り」をやっていました。期間は10月29日から11月27日までです。


さて、きょうは、新しいルート3つにトライしてみました。ひとつは、前回失敗した横川から安楽律院の北への道、ひとつは、峰レストランの南から大宮林道への道で、もうひとつは、八瀬へ下る道です。


1番目の道は、きょうは逆コースを歩き、安楽律院の北から横川の方に登っていきました。途中、前回通った道に出合い、スムーズに踏破できました。


2番目の道は、2万5千分の一の地図にある道です。しかし、今はかなり荒廃していて、途中わずかに道の痕跡があったのですが、やはり迷ってしまいました。藪漕ぎをして、結局地図上の下り口よりかなり北寄りに下山してしまいました。


3番目の道は、2万5千分の一の地図には2つのコースがあって、最初、ロープウェイ比叡駅の北から下る道を歩いたのですが、道の上に3人のおばさんたちが腰を下ろして休憩されているので通れません。「この道は八瀬に下りれますか」と聞いたら、「道なんかないよ」と言う返事。よく見ると、おばさんたちの先の方には道らしきものがありません。しかたなく、北の方の西塔から下るコースを歩きました。このコースは比較的よく整備されていてすんなり踏破できました。


2011年11月3日(木)止路、曇り

06:11 比叡山坂本駅

06:41 日吉神社(七宮参拝)

―飯室奈良坂―

07:32 不動堂(不動明王立像に参拝)

**安楽律院の北から横川の行院の北に登る**

09:09 道元禅師得度跡

09:19 恵心堂(阿弥陀如来立像に参拝)

09:27 横川中堂(聖観世音菩薩に参拝)

**峰道の途中、峰レストランの南から東の方に下山するも、途中から道がなくなり、

地図上の位置よりかなり北の方の大宮林道の三つ俣に下山、そこから、南西に歩き、

途中、林道から南の山道に入り、栄西禅師の旧跡を通り、根本中堂の東に出る**

12:07 根本中堂(薬師如来立像に参拝)

**根本中堂からロープウェイ比叡駅の北まで歩き、引き返し、国家鎮護の碑から

林道に入り、そのままケーブル八瀬駅の方へ下山**

14:25 叡電八瀬比叡山口駅(走行時間8時間14分)


写真(sen29)

恵心堂。少し色づき始めました。



2011/11/12 千30・お釈迦様の悟り


「今は昔、天魔がいろいろな手段を講じて、太子の修業を妨げようとするのですが、太子は芥子粒ほども動じることがありません。慈悲の力によって、美しい女性の姿で天魔が誘惑しようとしても見破り、刀剣で襲ってきてもうまくかわし、2月7日の夜についに天魔を屈伏させて、からだから大きな光明を放ち、心を集中して瞑想し、真理を究明されました。夜半になると、遠く広く微細に全てを見通す天眼を獲得された。夜明け前になると、無知を打破し、知恵の光を獲得され、煩悩を永遠に絶って、完全無欠な仏の悟りをおひらきになったのです。それからはお釈迦様と呼ばれるようになりました。」


上は、今昔物語にあるお釈迦様の悟りの場面の洋漢堂訳です。お釈迦様の誕生日は2月8日なのですが、悟りをひらかれた日も奇しくも私の誕生日と同じ2月8日の明け方であった訳です。


さて、きょうは、西教寺の南から西の三石山の方に登るルートにトライしてみました。これは2万5千分の一の地図にある道です。始めは、よく整備された道だったのですが、途中からルートが消えてしまい、またしても藪漕ぎであります。しばらくして、林道に出て、いつも歩く横川行者道に出ました。よくよく考えると、私は何度も迷い、苦闘し、そして必ず道に出ています。ということは、全山、道でないところはなく、全ての谷や尾根が道である訳です。私の道探しの旅も、しょせん空なのです。


2011年11月12日(土)逆観路、曇り時々晴れ

06:11 比叡山坂本駅

06:44 日吉神社(七宮参拝)

**西教寺の南から西に歩き横川行者道に出る**

―横川行者道―

08:46 恵心堂(阿弥陀如来立像に参拝)

08:55 横川中堂(聖観世音菩薩に参拝)

―峰道―

10:10 ミロクの石仏(弥勒菩薩坐像に参拝)

10:15 釈迦堂(釈迦如来立像に参拝)

10:32 山王院(千手観音立像に参拝)

10:46 根本中堂(薬師如来立像に参拝)

11:15 明王堂(不動明王坐像に参拝)

―無動寺谷坂―

12:36 比叡山坂本駅(走行時間6時間25分)


写真(sen30)

西塔の釈迦堂。中にはお釈迦様がおられます。



2011/11/17 千31・ミロクの石仏


今昔物語は仏教説話集で、インド、中国、日本の多くの坊さんたちの逸話が満載されています。冒頭、お釈迦様の誕生のことが語られます。インド、中国を終えて、日本にはいって、始めに登場するのが聖徳太子であります。


「今は昔、本朝に聖徳太子と申す聖おはしけり。・・・また、百済国より、弥勒の石仏を渡し奉りたり。その時に、大臣、蘇我の馬子の宿祢といふ人、この来れる使を受けて、家の東に寺を造り、これをすゑて養ふ。大臣この寺に塔をたてむとするに、太子ののたまはく、『塔をたてば、必ず仏の舎利を籠めたてまつるなり』と。舎利一粒を得て、即ち瑠璃の壺に入れて、塔に安置してをがみたてまつる。すべて太子この大臣と一つにして三宝(仏法僧)を弘む・・・」


こうして仏教が日本中に広がって行ったのです。その後、神道派の物部、中臣氏と戦い、聖徳太子と蘇我馬子が勝利し、仏教がさらに普及していきます。その後、馬子の子の蝦夷、その子の入鹿の世となり、蘇我氏の勢いがますます盛んとなると、横暴が目立ち、うっぷんがたまった中臣の鎌足が中大兄皇子をけしかけて、ついに、宮中で入鹿を殺害し、翌日には蝦夷を自殺に追い込みます。中臣氏は藤原氏と名をかえ、平安時代の黄金時代へと突き進んで行った訳です。蘇我氏は滅びましたが、仏教はその後も広がっていきました。慈悲の仏教も、かような血なまぐさい過去をもっている訳です。


さて、きょうも道探索の旅。飯室奈良坂の南から西に歩き、2万五千分の一の地図に載っているルートを、いつものように悪戦苦闘して走破しました。


2011年11月17日(木)逆観路、曇り時々晴れ

06:11 比叡山坂本駅

06:40 日吉神社(七宮参拝)

**奈良坂の南から西に歩き、林道に出て、横川行者道に合流**

―横川行者道―

09:06 恵心堂(阿弥陀如来立像に参拝)

09:19 四季講堂

09:24 横川中堂(聖観世音菩薩に参拝)

―峰道―

10:29 ミロクの石仏(弥勒菩薩坐像に参拝)

10:35 釈迦堂(釈迦如来立像に参拝)

10:49 山王院(千手観音立像に参拝)

10:58 根本中堂(薬師如来立像に参拝)

11:20 明王堂(不動明王坐像に参拝)

―無動寺谷坂―

12:28 比叡山坂本駅(走行時間6時間17分)


写真(sen31)

ミロクの石仏。ミロクは聖徳太子の頃伝来した仏様であります。



2012/07/08 千32・私の千日回峰行


私の千日回峰行もきょうで32日目です。毎年50日行い、20年後の77歳の時に満願にしようと始めたのですが、なかなかどうして、在家の身にもしんどい目標であります。このたび名古屋の地に移ることになりましたので、しばらく回峰行はお預けです。


私の回峰行の定義は、


・日吉神社の七宮を参拝すること

・延暦寺の根本中堂の薬師如来を参拝すること

・明王堂か不動堂の不動明王を参拝すること


の3条件を満たすものとしています。そして、不動堂を通るコースを止路、明王堂を通るコースを観路と名づけ、不動堂と明王堂を同時に回るコースを止観路と名付けました。コースには逆順があり、最初に不動明王を参拝する場合を順、終わりに参拝する場合を逆としています。


ところで、きょうは初めて日吉大社に隣接している日吉東照宮を参詣しました。地元の人が大変ご利益があると言っているのですが、今まで、どういうわけか足が遠のいておりました。今回、尾張徳川家にご奉公することになったのも何かの縁と思い、日光東照宮再建のモデルとなった本宮を参拝しました。


そのご利益か、恵心堂に着くと、ちょうど大津市の男性も到着していて、お堂を開けてくれ、江戸初期の作ではないかと推量される阿弥陀様を拝むことができました。たまたま本堂を訪れた互いに初対面の男女3人が大津市の男性に呼び止められ、お堂の中で4人による不思議な縁についての話が始まりました。私はお堂の外でその会話を拝聴していたのですが、彼らの楽しい笑い声を聞いていると、どういうわけか、私の中の何かが抜け落ちたようで、それまで重かった腰の具合が軽減し、軽やかになり、身心がすっきりとしてきました。


きょうの比叡山は緑が濃く、ウグイスとホトトギスとそれから名前のわからぬ他の鳥たちの声が雨上がりの静かな森に交錯していました。横川を訪問する人は比叡山を訪れる人の10分の1で、恵心堂を訪れる人はさらにその10分の1だそうです。恵心堂を訪れてもお堂が開いていることはまれで、さらにお堂の中に入って阿弥陀様を拝もうとする人はまれであります。それぞれ10分の1の確率とすると、何かの縁で恵心堂の阿弥陀様を拝み大津市の男性と会話する人は、比叡山を訪れる人の1万人に一人ということになります。


2012年7月8日(日)逆止路、曇り

06:11 比叡山坂本駅

06:42 日吉神社(七宮参拝)

07:07 日吉東照宮

08:44 根本中堂(薬師如来立像に参拝)

09:00 山王院(千手観音立像に参拝)

09:15 釈迦堂(釈迦如来立像に参拝)

09:22 ミロクの石仏(弥勒菩薩坐像に参拝)

―峰道―

10:43 横川中堂(聖観世音菩薩に参拝)

10:59 道元禅師得度跡

11:09 恵心堂(阿弥陀如来立像に参拝)

―柏木坂―

12:38 不動堂(不動明王立像に参拝)

―飯室奈良坂―

13:38 比叡山坂本駅(歩行時間7時間27分)


写真(sen32)

日吉東照宮。日光東照宮の雛形といわれています。


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