石牟礼道子
- yokando2
- 2023年11月18日
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2012年、水俣病の認定申請が7月末で締め切られた。が、国の厳しい認定基準で救済が受けられる患者が全体の一部に限られていたため、水俣病関連訴訟はその後も続いている。
私が物心ついた頃には水俣病は発覚していた。発覚した当初、同じ不知火海に面していた私のふるさとである八代では、水俣病患者に対する同情よりも、「水俣病訴訟で闘っている人たちの大半が本当は水俣病でなく金目当ての訴訟だ」と考える人も多く、水俣病の訴訟団に対しては冷ややかな視線を向けていたような気がする。私の母も、どこで聞いてきかたか知らないが、「本当の水俣病は手が横に振るえるけど、Kしゃんは縦に震えとるけん、あれは水俣病じゃなかばい」と言ったりしていた。
私が中学・高校と通った私立の学校には水俣からやってきた友達も何人かいたが、もうそのころは、訴訟の熱は冷め、水俣病は過去のものとなっていて、それらの友達に特別な感情を抱くことはなかった。しかし、後年、水俣出身のひとりの友達が自殺してしまい、水俣病とは直接関係ないかもしれないが、複雑な気持ちになった。
私が就職した会社には、学生時代に全共闘に属し、学生運動をしていた先輩がいた。その人のお父さんは、チッソに勤め、水俣病が問題になる前に会社を辞めて田舎の高校で化学の先生をされていた。先輩の家でそのお父さんとお酒を飲んで語り合ったことがある。お父さんは話しが面白く、確か水俣病についても話し合ったのだが、その内容はすっかり忘れてしまった。残念ながら、お父さんは、その飲み会の数ヶ月後にお亡くなりになった。
私が大阪で鍼灸の治療をした患者さんの中に水俣出身の方がいた。その方はお年寄りの女性で、主訴は耳鳴り。ご主人が昔、チッソに勤められ、会社で組合運動をされていたときに第二組合ができて、二つの組合の間の軋轢に耐え切れず、夫婦で大阪に出てこられた。
また、不知火海に浮かぶ獅子島出身の男性で、私より2つか3つ年長の方を治療したことがある。この方は水俣病と認定されている患者さんで、主訴は腰痛。獅子島は漁業が中心の島で、この方の家も代々漁業をしてきて、家族がみな水俣病になったそうだ。この方の症状は比較的軽かったのだが、汚染された海での漁ができなくなって、大阪に出てこられた。
水俣で思い出すことを、つらつら書いてみたが、水俣病患者とともに暮らし、ともに闘った石牟礼道子さんが40年以上の歳月をかけて書き綴った『苦海浄土』には、水俣そのものが活写されている。
石牟礼道子(1927-2018年)さんは天草で生まれ、水俣で学校の先生をされ、結婚後、その生涯をかけて水俣病患者とともに闘った人である。彼女のお友達の水俣病患者の女性が2008年に亡くなっていたが、その女性がなくなる前に石牟礼さんに語った言葉は、水俣病を患っていない人々の胸にぐさりと突き刺さる。
「国も許す、チッソも許す、差別した人も許す。許さんと私たちが苦しかけん、全部許す。他のみんなの代わりに私たちが水俣病になっとっとだけん。しかし、まだ生きとりたか」
石牟礼道子 年譜
1927年(00歳) 3月11日、白石亀太郎と吉田はるのの長女として熊本県天草郡宮野河内(現河浦町)に生まれる。父は水俣町浜で道路講港湾建設業を営むはるのの父松太郎の事業を補佐し、一家して宮野河内に出張中で、生後数カ月して帰郷。
1930年(03歳) 水俣町栄町に転居。
1934年(07歳) 水俣町立第二小学校入学。
1935年(08歳) 祖父松太郎の事業失敗により自宅を差し押さえられ、水俣川河口の荒神(俗称「とんとん村」)に移る。
1936年(09歳) 水俣町立第一小学校に転校。
1937年(10歳) 水俣町猿郷に転居。
1940年(13歳) 水俣町立第一小学校卒業、水俣町立水俣実務学校(現県立水俣高校)に入学。歌作を始める。
1943年(16歳) 水俣町立水俣実務学校卒業。芦北郡佐敷町の代用教員錬成所に入り、2学期より芦北郡田浦小学校に勤務。
1945年(18歳) 戦災孤児タデ子を拾い、50日間養う。
1946年(19歳) 春、水俣市葛渡小学校へ移る。結核発病し、秋まで自宅で療養。小学校にあった亜ヒ酸で自殺を試み、未遂に終わる。
1947年(20歳) 退職。3月、石牟礼弘(1925~2015年)と結婚。
1948年(21歳) 10月、長男道生出生。水俣市内日当の養老院下に住む。
1951年(24歳) この頃、「令女界」歌壇に投稿、窪田空穂より激賞される。
1952年(25歳) 「毎日新聞」熊本歌壇に投稿始める。10月創刊の歌誌「南風」に入会。
1954年(27歳) 谷川雁を知る。半年ほど水俣市内のレストランに勤務。
1956年(29歳) 「短歌研究」新人五十首詠に入選。この年より詩を発表し始める。
1958年(31歳) 「サークル村」結成に参加。11月29日、弟一(はじめ)鉄道自殺。
1959年(32歳) 5月、日本共産党に入党。「アカハタ」懸賞小説に「舟曳き唄」応募、佳作となる。
1960年(33歳) 共産党を離党。
1962年(35歳) 谷川雁の指導で結成された熊本の「新文化集団」に参加。同人誌「詩と真実」に入会。日窒安賃闘争起こり、市民向けビラを書いて支援。
1963年(36歳) 水俣市日当猿郷に転居。12月、雑誌「現代の記録」創刊に携わる。同誌に『西南役伝説』を発表。
1965年(38歳) 『海と空のあいだに(のちの苦海浄土)』を「熊本風土記」に連載開始。
1966年(39歳) 高群逸枝伝の準備のために東京世田谷の「森の家」橋本憲三宅に滞在。
1968年(41歳) 1月、水俣病対策市民会議を結成。妹妙子帰宅して姉の仕事を補佐。
1969年(42歳) 1月、『苦海浄土』講談社から刊行。『苦海浄土』で熊日文学賞を与えられたが辞退。4月、父亀太郎死す。6月、水俣病患者、訴訟を提起。以後患者と行動をともにする。
1970年(43歳) 『苦海浄土』が第1回大宅壮一賞に選ばれるも辞退。『神々の村(苦海浄土・第二部)』)を「辺境」に連載開始。5月、厚生省補償処理会場占拠に付添いとして参加。11月、大阪チッソ株主総会に「一口株主」として参加。
1971年(44歳) 12月、自主交渉派によるチッソ東京本社占拠に付添いとして参加。
1972年(45歳) 自主交渉闘争のため、東京・水俣間を往復。6月、左眼の白内障手術を受ける。『天の魚(苦海浄土・第三部)』を「展望」に連載開始。
1973年(46歳) 3月、水俣病訴訟判決。患者のチッソ本社交渉に参加。6月、熊本市薬園町に仕事場を設ける。8月、マグサイサイ賞を受賞し、マニラに赴く。季刊誌「暗河」創刊に携わる。
1974年(47歳) 11月、『天の魚』葦書房から刊行。
1976年(49歳) 4月、色川大吉、鶴見和子などに依頼し、不知火海綜合学術調査団発足。11月、『椿の海の記』朝日新聞社から刊行。
1977年(50歳) 5月、山梨県塩山市中村病院にひと月入院。
1978年(51歳) 3月、熊本市若葉1丁目に仕事場を移す。7月、熊本市健軍・真宗寺脇に仕事場を移す。同月、与那国島旅行。12月、久高島でイザイホーを見る。
1981年(54歳) 映画「水俣の図物語」創作に参加。
1984年(57歳) 6月、『おえん遊行』筑摩書房から刊行。
1986年(59歳) 11月、西日本文化賞を受賞。
1988年(61歳) 5月、母はるの死す。
1992年(65歳) 5月、『十六夜橋』径書房から刊行。
1993年(66歳) 1月、「週刊金曜日」創刊に参加。9月、『十六夜橋』にて紫式文学賞受賞。
1994年(67歳) 4月、「週刊金曜日」編集委員辞任。同月、熊本市湖東へ転居。同月、田上義春、杉本栄子、緒方正人らと「本願の会」を結成。
1996年(69歳) 8月、日米環境文学シンポジウム(ハワイ)に参加。
1997年(70歳) 11月、『天湖』毎日新聞社から刊行。
1999年(72歳) 11月、『アニマの鳥(春の城)』筑摩書房から刊行。
2002年(75歳) 1月、2001年度朝日賞受賞。7月、新作能「不知火」宝生能楽堂と国立能楽堂で上演。9月、熊本市水前寺へ転居。
2003年(76歳) 3月、『はにかみの国 石牟礼道子全詩集』芸術選奨文部科学大臣賞受賞。10月、新作能「不知火」熊本県立劇場で上演。
2004年(77歳) 4月、『石牟礼道子全集』藤原書店から刊行開始。8月、新作能「不知火」水俣奉納公演。10月、東京オーチャードホールで「不知火」上演。11月、熊本県近代文化功労者として表彰。
2006年(79歳) 6月、熊日賞受賞。10月、『苦海浄土 第二部・神々の村』藤原書店から刊行。
2008年(81歳) 5月、熊本市京塚本町へ転居。6月、『言霊(多田富雄との往復書簡)』藤原書店から刊行。
2009年(82歳) 7月、左大腿骨骨折、熊本大学付属病院で手術、託麻台リハビリテーション病院でリハビリ。12月、自宅へ帰る。
2014年(87歳) 1月、『葭の渚』藤原書店から刊行。
2015年(88歳) 8月20日、夫弘死去。
2018年(91歳) 2月10日、パーキンソン病の急性増悪で、熊本市の介護施設で死去。
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