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  • yokando2

小堀遠州


小堀遠州(1579-1647年)は、本職は秀吉、家康に仕えた武士でありながら、茶人であり、築城家であり、庭師でもあった。


茶人としては千利休の弟子の古田織部の弟子であり、ストイックなまでに「わび」を追求した利休に比べ、遠州はもうすこしおおらかな「きれいさび」の世界を築き上げている。利休のわずか2畳の茶室、妙喜庵待庵と遠州の12畳で明るい茶室、孤蓬庵忘筌を比較すれば違いがよくわかる。


築城家としては、駿府城をはじめ、名古屋城、大阪城などの築城、修築に携わっている。そして、庭師としては、孤蓬庵の露地のほかに、


南禅寺金地院

二条城

仙洞御所

岡山の頼久寺


などの庭にその手腕を振るった。遠州の庭は、伝統的な趣の中に、明るく、開いた感じで、どこかモダンな香りが漂っている。


小堀遠州は43歳のとき(1621年)、大阪城修復などの要件で江戸から京へ赴く。このときの紀行文が「小堀遠州東海道紀行」に載っている。昭和60年出版のこの本は定価2800円だったのだが、今は絶版になっていて、古本市場では2万円程度で出回っている。


次の文は、遠州がその旅で名古屋を訪れたときの1節である。国守というのが当時の名古屋城主、尾張徳川家初代の義直である。遠州は実はその10年前に名古屋城の天守閣築城の指揮を執っていて、そんなこともあって手厚くもてなされたのであろう。


・・・

国守の御もとより殊に懇にいたはり給ひて、御舟など給はりて、暮れかかるほどに熱田を出で、はるばるの海路を経て、はや伊勢の国桑名の里に着く。舟より上りて、


舟人のこがれて伊勢に着く里をくはなと聞けど旅は苦しき

・・・


桑名を「苦は無」とかけて、親父ギャグを披露するなど、茶目っ気たっぷりである。遠州は、本職は武士でありながら、茶人であり、築城家であり、庭師でもあり、そして歌人でもあった訳だ。まさに、江戸のミケランジェロだ、と思ったら、あにはからんや、『小堀遠州物語―日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ』という本も出版されていた。

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