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徳川家康


松本清張が青少年向けに書いた伝記『徳川家康』には、家康の考え方や行動がわかりやすく紹介されている。


例えば道楽であるが、信長の道楽は猿楽で、秀吉のそれは茶の湯であるとすれば、家康の道楽は鷹狩りだった。鷹狩りは足腰が鍛えられるため健康によく、また、田や畑を歩き回るので民の生活を知るのにも役立ったようである。


家康のもうひとつの道楽は、ちょっと意外だが、学問だった。頼朝の事績を扱った『東鏡』は繰り返し読んで、戦いや治世の参考にしていたという。また、藤原惺窩の弟子の林道春をそばにおいて、よく講義をさせていたという。家康は『東鏡』以外にも以下のような書物を愛読していた。


「貞観政要」(唐の太宗と臣下の問答集)

「六韜三略」(中国古代の兵書)

「周易」(儒学の経典)

「大蔵一覧」(仏教書籍の中国語訳)

「群書治要」(治世に関する唐の書物)


以下のことばは、「足ることを知って足るものは常に足る」という老子の言葉を座右の銘にし、忍耐、質素、堅実を貫いた家康の気持ちをよくあらわしている。


「人の一生は重荷を負って、遠い道を行くようなものだ。いそいではならない」

「不自由があたりまえだと思っていれば、不平や不足はない」

「心に、ものがほしい気持ちがおこったら、困ったときのことを思い出せ」


2012年8月、私は犬山城に登った。犬山城は戦国時代に作られた天守閣がそのまま残っていて、小さいながらも城らしい城で、最上階からの眺めも抜群。10kmほど南には濃尾平野の真っ只中に小牧山城のある小高い山がはっきり見えた。犬山城に登った翌日、こんどは小牧山城に登ったのだが、こちらの方は鉄筋コンクリの城で、趣はない。こちらも眺望が良く、北の方に犬山城を望遠鏡で確認できた。目のいい戦国武将たちは、手に取るように互いの城の様子を実見できていたことが推測できた。


昔、1584年、この犬山城と小牧山城を舞台に、秀吉と家康が対峙し、そして、小牧山の南東約20kmにある長久手で激突し、家康が勝利している。この戦いは不思議な戦いで、この長久手の戦いで勝利した家康がしばらくして秀吉の部下になる。だから、このときは、戦術で家康、戦略で秀吉が優っていたことになる。家康は、負けても最後には勝利する人物であるから、この時の苦い経験も将来の江戸幕府創設に大いに役立ったのであろう。


それにしても、信長は尾張の那古野城、秀吉は尾張の中村、家康は三河の岡崎城で生まれているのであるから、この傑出した武将は3人とも今の愛知県の出身であったのである。当時は、この3名の他に、信玄や謙信など、名立たる武将が多数いたから、京都から程よい距離の東方に位置するという地の利もあって、この3武将の天下取りに有利に作用したような気がする。実際に犬山城と小牧山城に登り、雄大な濃尾平野を眺め、そのようなことを思った次第である。


そして、小牧山城に登った数日後、今度は名古屋城までサイクリングした。炎天下の街並みの中に、オアシスのように、そこだけ森閑として涼やかであった。


この城は誰が築城したかと言うと、家康である。関ヶ原のあと大阪城周辺にたむろする秀吉の残党たちに対抗するための拠点として、1610年、加藤清正に命じて作らせたのである。なにしろ、清正は城作りの名人で、朝鮮半島から腕のいい石工を沢山連れてきていたから、地元の熊本城も立派であるが、この名古屋城も立派に作り上げてくれた。


名古屋城の初代城主は家康の九男、義直。すなわち尾張徳川家の祖である。名古屋城といえば金の鯱であるが、その金は時代とともに純度が落ち、先の戦争で城郭が焼け落ちてしまったときにはわずか1gの金も残っていなかったそうだ。今の天守閣は昭和の再建であるが、清正の石垣は当時のものが残っていて、犬山城や小牧山城などの山城とはスケールが違い、ゆったりとした堀の水に囲まれ、静かに佇んでいる。


小説家・海音寺潮五郎は数多くの史伝を残している。彼の『日本名城伝』も、城にまつわる人物伝といった様相を呈し、広範な文献を渉猟し、歴史的人物を生き生きと描写している。


日本には4万の城があるとされているが、この本には12の城が取り上げられている。その中の一つが江戸城。この城は、もちろん、太田道灌築城の城を家康が大改築したもので、今は皇居となっている。1590年、家康が秀吉からいただいたときに城に居住していたのは、何と私の遠い先祖である遠山氏である。遠山氏は1456年に太田道灌によって作られた元祖江戸城に住んでいたわけであるが、この城は粗末な城ながら、海岸沿いにあり、東に筑波山、西に富士山が遠望できる風光明媚な地にあったのである。


太田道灌といえば、あるとき雨にあって、みすぼらしい家で、蓑を貸してくれるよう頼んだところ、家の少女が出てきて、蓑でなく山吹の花一輪をさしだしたのに怒って帰り、のち、


七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞかなしき


という歌が後拾遺集にあるのを知り、恥じて、その後、和歌の道に励んだというので有名な歌人でもある。海音寺潮五郎の『日本名城伝』には、太田道灌が時の天皇から、「そちの居城はどんなところか」と問われて、答えたときの和歌が載っている。


わが庵(いほ)は松原つづき海近く富士の高根を軒端にぞ見る


江戸時代の将軍で正妻の子は家光までで、4代将軍の家綱から15代将軍の慶喜まで全てが妾の子である。大奥といった世継ぎ問題対処室があったにもかかわらず、妾にも子ができず、紀州藩や水戸藩から男子を連れて来ざるを得ないこともあった。皇室でもそうだが、権力を世襲するというのは、とんでもなく難しいことなのだ。


扨、3代将軍の家光であるが、世間的には有能な将軍であったというイメージがあるが、どうも名君ではなかったようである。吃りと男色に加え、粗暴で幼稚な行動が多く見受けられたようで、有能な家臣に恵まれていなければ、徳川家は滅んでいたと言われている。そのような想像を納得させるような資料が名古屋市にある。


家康と家光が自分で描いた墨絵がそれぞれ1点ずつ、名古屋市の徳川美術館に保管されているのである。家康の絵は伸びやかでどこかユーモラスなところもあるに対し、家光の絵は隅っこの方にちょまちょまと描かれている。二人の性格がよく表れている絵である。


会社を打ち立てても3代で潰れることが多いと聞くが、徳川家でも3代で危機を迎えていたのかもしれない。危機を救ったのは、有能な家臣たちで、したがって、家康が作っておいた権力システムがよっぽどしっかりしていたという証拠ともいえる。

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