知多新四国八十八所巡礼
- yokando2
- 2023年7月29日
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知多新四国八十八所巡礼
2019年5月27日から翌年5月23日にかけ、およそ1年をかけ、知多新四国八十八所を踏破。6度の旅で、実際に歩いた日数は延べ7日間の行程であった。
【初回】2019年5月27日
知多新四国八十八所巡りを開始。この日は、1番から15番まで、5番を除く14所を参拝した。名鉄の前後駅から歩き始め、名鉄の板部駅まで、およそ30キロの道のり。多くは国道沿いを歩き、車の騒音と排気ガスと照りつける太陽に悩まされる巡礼だった。お接待もなく、自分以外の歩き遍路をみかけることもない。田んぼのカエルの声もウグイスのさえずりも聞けない。本家の四国遍路以上に辛い道中だったが、やはりそれなりに達成感はある。廻り終えて飲んだ冷たいビールは格別だった。
四国遍路のときに出会った尼さんが、日本には四国以外にも八十八所が三つある、笹栗と小豆島と名古屋だ、と教えてくれた。あれえ、名古屋にそんなとこあったっけ、とその時思ったが、おそらく知多の八十八所のことだったのだろう。本場四国の場合は、お寺のほとんどが真言宗の寺だったが、知多の場合は天台宗あり、曹洞宗あり、浄土宗ありと多彩だ。ただし、それぞれの寺に大師堂だけは必ずある。江戸末期、知多の八十八所が開創されたときに拵えられたようだ。
四国遍路道の場合との大きな違いは、道中にコンビニと自販機が多数あって、飲食に窮する心配がなかったことだ。これは大変助かることだが、遍路の醍醐味は半減する。四国で会ったポルトガル娘が言っていたが、ヨーロッパのサンティアゴ巡礼の道は四国と同様に険しい山道もあるが、とても便利だ。というのは、数キロごとに宿泊所やレストランがあるからだそうで、だから四国の方が達成感は半端ないだろう、とのこと。知多八十八所は便利な上に険しい山道もない。今回の知多巡りでは、私は、本家の四国巡礼の旅を懐かしく思い出しながら歩いた。
【2回目】2019年6月16日~17日
一泊二日での知多新四国巡礼の続き。携帯もカメラも時計も持たず、テントかついでの、気楽な歩き旅である。きょうび、車の往来の多い知多半島での歩き遍路はほとんどいない。というか、今回の旅では、私以外の歩き遍路らしき人は皆無であった。途中、二つの島に渡り、松島に沈む夕陽、富士山に上る朝日を拝むという好機には恵まれたものの、二日間で食費2000円というポルトガル娘直伝の一日千円けちけち遍路旅であった。
6月16日(日)金山駅6:54(名鉄)7:48河和駅(0.5km)第26番弥勒寺(3.9km)第27番誓海寺・禅林堂(2.6km)第28番永寿寺(2.8km)第29番正法寺(2.7km)第30番医王寺(隣接)第31番利生院(隣接)第32番宝乗院(隣接)第33番北室院(隣接)第34番性慶院(1.0km)聖崎の上陸大師(1.5km)第35番成願寺(1.8km)第36番遍照院(0.7km)師崎港(高速船)日間賀東港(0.3km)第37番大光院(2.0km)日間賀西港(高速船)篠島港(0.9km)第38番正法禅寺(0.3)番外西方寺(0.3km)第39番医徳院(3.0km)北山公園テント泊。
6月17日(月)北山公園(0.3km)篠島港(高速船)師崎港(1.0km)羽豆神社(2.6km)番外浄土寺(3.8km)第40番影向寺(2.5km)第41番西方寺(1.2km)第42番天龍寺(0.8km)第43番岩屋寺・奥の院(5.5km)第44番大宝寺(2.0km)第45番泉蔵院(0.6km)第46番如意輪寺(1.1km)第47番持宝院(0.5km)内海駅15:15(名鉄)16:08金山駅。
昭和54年7月26日夕方から翌27日早朝にかけて、篠島の私がテントを張った北山公園の隣の広場で、吉田拓郎が徹宵コンサートを行っている。“吉田拓郎 アイランド・コンサート In 篠島”だ。今、その広場は鉄条網で囲まれて立ち入り禁止となっていて、その鉄条網の中の建物は見るも哀れな廃屋となっていた。島内人口の2倍にも達する観客2万人が集ったあのときの熱狂と喧騒はどこへ消えちゃったのだろう。
人間〜なんて らら〜ら〜らららら〜ら〜
人間〜なんて らら〜ら〜らららら〜ら〜
何かが ほしい オイラ
それが 何だか わからない
だけど 何かが たりないよ
いまの 自分も おかしいよ
空に 浮かぶ 雲は
いつか どこかへ 飛んでいく
そこに 何かが あるんだろうか
それは 誰にも わからない
人間〜なんて らら〜ら〜らららら〜ら〜
人間〜なんて らら〜ら〜らららら〜ら〜
時代はさかのぼり、昭和14年春、山頭火は、知多半島を訪れた。死の前年である。そのとき、篠島をも訪れていて、以下のような句を残している。このころは、まだ、歩き遍路の人々も多かったのだろう。今は、島外からの観光客は激減しているのだろうか、レストランや土産物店の多くが閉店し、窓ガラスは割れ、トタン屋根は剥がれ、家の廃材が散乱している。淋しい限りである。
春風の聲張りあげて何でも十銭
歩きつづけて荒波に足を洗はせてまた
花ぐもりの病人嶋から乗せて來た
出船入船春はたけなわ
島へ花ぐもりの読めの道具積んで漕ぐ
島島人が乗り人が下り春らんまん
やっと一人となり私が旅人らしく
波の上をゆきちがふ挨拶投げかはしつゝ
【3回目】2019年10月27日
知多新四国霊場の旅。今回は、3度目で4日目。朝早く名古屋を出て、地下鉄、名鉄を乗り継いで、8時に名鉄内海駅に着き、そこから歩き始め、ほぼ30キロの道のりを歩きとおし、夜7時に名鉄常滑駅にたどり着いた。最後の方は、懐中電灯を灯しながらの巡礼となった。参拝したのは以下の16寺。南知多町から美浜町を経て常滑市までを歩いたことになる。
48番 禅林山 良参寺、49番 護国山 吉祥寺、50番 鶴林山 大御堂寺、51番 鶴林山 野間大坊、53番 鶴林山 安養院、52番 鶴林山 密蔵院、56番 祥雲山 瑞境寺、55番 曇華山 法山寺、57番 孔雀山 報恩禅寺、58番 金光山 来応寺、59番 万年山 玉泉寺、60番 大光山 安楽寺、61番 御嶽山 高讃寺、62番 御嶽山 洞雲寺、63番 補陀落山 大善院、64番 世昌山 宝全寺、65番 神護山 相持院
巡礼の旅は驚きの連続である。例えば、昨日最初に訪れた第48番札所の良参寺だが、1832年、大坂から江戸へ向かう途中で遭難し、アメリカに漂着した小野浦の千石船「宝順丸」の乗組員14人の墓碑があった。そして、その墓碑の下には、その14人の一人で、マカオで生涯を終えた音吉の遺灰が納められていた。この遺灰が平成18年に173年ぶりに日本に戻ってきた経緯は、とても興味尽きないものなのだが、とまれ、音吉は、久吉、岩吉とともに、初の邦訳聖書の制作に協力したことで知られている。そのためか、私が本殿に上がって、堂内に陳列されている仏像を拝見していると、多くの仏像の中に、どうもマリア像としか思えないものが数体混じっているのである。
また、第51番札所の野間大坊には、源頼朝が父義朝の菩提を弔うために奉納した開運延命地蔵がご本尊として祀られている。ここ知多半島の野間は、平治の乱で敗れて落ち延びた義朝が、家臣の長田忠致・景致父子によって謀殺された場所であったのだ。そして、隣接する第50番札所・大御堂寺を訪れると、義朝の廟所があり、その隣には織田信孝の墓もあった。信長の三男・信孝も、羽柴秀吉に敗れ、今は第53番札所となっている安養院で自害していた。そして、少し離れた第55番札所の法山寺に行くと、境内の横に御湯殿というところがあり、なんと、こここそが、義朝が入浴中に長田忠致・景致父子によって殺害された場所だったのだ。御湯殿の水は今でこそ枯渇しているが、平安の昔は温泉が湧き出ていて、薬師の霊泉として有名だったそうだ。
私が、特に驚いたのは、知多半島の歴史の古さである。知多市には縄文時代の二股貝塚があり、第50番札所の大御堂寺のすぐに東にも縄文・弥生の遺物が出土した下高田遺跡がある。また、奈良・京都にも負けぬくらい多くの古い仏像が各地に散在している。例えば、常滑市にある第61番札所の高讃寺は、白鳳12年(683年)、行基によって創建され、かつては七堂伽藍を有する大寺院として名を馳せていた寺である。しかし、天文年間に、織田・今川両氏の交戦による戦火で堂塔末坊の大半を失い、文禄年間にも兵火に襲われ、南の坊一院を残すのみとなった。これらの戦火の中、仏像は難を逃れるために池や田畑に埋められた。後年、御嶽池の改浚のときに池中から阿弥陀如来座像が見つかったそうだ。第62番札所の洞雲寺は、この阿弥陀像を祀るために弘治元年(1555年)に建立されたということである。
私が洞雲寺を訪れたときは、もう日もとっぷり暮れていたが、本堂には灯りがともっており、本尊の阿弥陀如様も明るく照らし出されていた。この阿弥陀仏はその様式から平安中期の作だとされている。私は本堂に上がって、間近で拝見したのだが、全体が黒光りしている仏様で、そのお顔の静かなたたずまいには、心の中を涼風がすり抜けるようなすがすがしい感じを受けた。
最後に訪れた第65番札所の相持院は、もう真っ暗で、懐中電灯を灯しながら参拝したのだが、なんと、本殿の賽銭箱の横に一匹の白猫がおり、私が近づいても逃げようとせず、参拝中は、私のリュックの上で横になりくつろいでいるのである。ひょっとしたら、この猫、賽銭泥棒の見張り番をしているのかもしれない。とまれ、この寺の弘法大師像は、本堂の左奥にあり、灯りに照らし出されていて、本堂に上がってその眼前に座し、弘法様を間近に拝見できた。まことに、ありがたいことである。
【4回目】2020年5月14日
久しぶりに知多四国巡礼の旅に出た。前回は、48番から65番までだったから、今回は、66番からのスタートである。結局、81番龍蔵寺までの15か所を徒歩で巡った。朝8時から夕方5時まで、たっぷりと日光を浴びて、十分にビタミンDを作り出すことができたと思う。歩き始めて、最初の札所66番中之坊寺の本殿前で、いきなり次の文言に遭遇し、びっくりした。弘法さんは三蜜を奨励されているのである。コロナ禍の今避けられている三蜜とは内容が異なるものの、三蜜という言葉は古くからあったのである
“行者は身口意の三蜜を尊びます。合掌して(身)、経を唱え(口)、心願を念じ(意)ます”
私の場合、携帯は持参せず、納経帳に朱印を押してもらうこともせず、ただひたすら御本尊に向かって合掌して真言を唱えるだけだから、人と話すことはない。今回は、水で清めることも、鐘を撞くこともしなかったから接触感染の恐れもなかった。ただ、反省点がある。2回ほど、人に道を訊いてしまったのだ。これは、ソーシャルディスタンスを基本とする「新しい生活様式」に外れる。てきめん、天罰が下り、あいまいな情報を信じてしまって道を間違え、1時間ほど遠回りをしてしまった。
71番大智院では驚かされた。大師堂に鎮座まします弘法大師がサングラスをかけておられるのだ。幕末に盲目の浅吉という老人がいて、安政7(1860)年に、目が治るようこの弘法大師像にお祈りすると目が治った。代わりに弘法大師像の目に傷がついたので、浅吉がかけていた眼鏡をかけたことから「めがね弘法」と呼ばれるようになった。以前のめがねは今ほど真っ黒ではなかったが、護摩でいぶされてどんどん黒くなり今のように真っ黒になったそうだ。
80番栖光院は知多四国巡礼のオアシスかもしれない。きれいな水洗トイレがあり、しかもウォシュレットなのだ。歩くお遍路にとって、トイレの問題は深刻である。こんなきれいなトイレに出会うとうれしくなってしまう。栖光院のいいところはそれだけではない。創建前から存在する樹齢800年の大楠が山門近くに今もでんとあるからだ。新緑の葉っぱが心地よい日陰を作ってくれている。まさにオアシスである。
【5回目】2020年5月17日
再び、知多新四国巡礼の旅に出た。今回は、82番感福寺から5番地蔵寺、88番円通寺、87番長寿寺までの8寺院を参拝。朝10時から午後3時まで歩いた。コロナの影響は、知多半島の寺院でも深刻だ。私が今回訪れた某寺院の本殿で住職が参拝者と話しているのが聞こえたのだが、一昨日は参拝者がゼロ、すなわち収入がゼロだったらしい。
今は初夏。日向は暑いが、日陰に入ると涼しい。見上げると、青い空に飛行機雲が幾筋か走っていた。車の多い道はいやだが、田舎道は空気が澄んでいて気持ちがいい。「テッペンカケタ、テッペンカケタ」とホトトギスの声が聴こえた。私は、タイガースの曲をデビュー曲から1曲ずつ口ずさんだ。周りに人はいない。タイガースを歌い終えると、こんどは、ビートルズの曲をはじめからのどをからして大声で歌い続けた。
それにしても、なんで歩くことがこんなに楽しいのだろう。一つの札所から次の札所まで1時間以上も歩くことがあるが、つらくはない。なんとなく楽しい。昔の人が築いた道を、昔の人が見ていた森や田畑や川を見ながら、昔の風景からは大きく変貌はしているのかもしれないが、どこかに昔の面影が残っていそうで、そんな昔のことを思いながら歩くからだろうか。
【最終回】2020年5月23日
知多四国を歩く。16番から25番まで歩き、最後に54番海潮院を訪れて、88か所踏破。JR武豊線の亀崎駅から列車に乗って名古屋に帰る。昨年5月27日に1番札所曹源寺を訪れているから、およそ1年にしての結願である。
“歩いて巡拝知多四国”と銘打ったポスターがあった。この催しは全19回、19日で満願となるが、ゆっくりといにしえの道を楽しまれるのだろう。それもよい。私の場合は7日だったが、これもよい。人それぞれ、それぞれのペースで歩けばよいのである。
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