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水木しげる

  • yokando2
  • 2023年10月1日
  • 読了時間: 4分

大地の母のことをラバウルの土人はトンブアナという。


太平洋戦争で19歳で赤紙をもらった水木しげる(1922―2015年)は、南方のラバウルで地獄のような野蛮な戦争を体験した。部隊全滅の中ひとりだけ生き残りジャングルの中をさまよい、味方の部隊に無事帰還するものの、敵機の空爆で左腕を失い、さらに何度もマラリアを患い一時は脳症のため生死の間をさまよう。そんななか、どういうわけか島の土人と親しくなり、土人とののびやかな共同生活を送ることになった。後年、漫画家として成功した水木しげるは、人生で楽しかったのは子供の時とこの土人部落での生活ぐらいだと振り返っている。


この土人部落の長老が、30年ぶりに同地を訪問した水木しげるのために次の歌に合わせて踊ってくれたのである。大地の母トンブアナの恵みに対する感謝の歌である。


椰子は我々のために水を用意してくれる

椰子は我々のためにコプラを用意してくれる

椰子は我々のために葉を用意してくれる

椰子は我々のために生きる用意をしてくれる


「夜はランプが消されると、真っ暗だから寝るしかない。なるほど、夜になれば眠るというのは、鳥のようで楽しい。人類が不幸になったのは、電気を発明したからかもしれない、と思った。夜は妖怪や悪魔が活躍する時間として残しておかなければならなかったのだ。」――「水木しげるの娘に語るお父さんの戦記」から


水木しげるが太平洋戦争中、生死をさまよったラバウルのジャングルの中で肌身離さず持っていた本がエッカーマンの「ゲーテとの対話」である。この本には、ドイツ北部のヴァイマルで、若きエッカーマンが大家ゲーテを訪問して語り合った内容が書かれている。哲学者ニーチェが最も強烈な印象を受けた書物が、ルター訳「聖書」、ショーペンハウエル著「意志と表象としての世界」、それにこの「ゲーテとの対話」の3冊だという。皮肉なことに、エッカーマンとゲーテが語り合ったこのヴァイマル近郊で、後年、水木しげるがラバウルのジャングルで野蛮な戦争に苦しんでいた頃、ヒトラーがブーヘンヴァルト強制収容所をつくって残虐行為の限りを尽くした。ヴァイマルは、まさに戦争と平和の地となった訳である。


・ 一事を明確に処理できる人は、他の多くのことでも役に立つ。


・ 一つの大きな全体をまとめあげ、完成するのに、なんとまあたいへんな努力と精神力の消耗が必要なのだろう。・・・とにかく差当たって大物は一切お預けにしておくことだね。今は人生の明るいのびのびしたところへさしかかった時なのだ。これを味わうには小さな題材を扱うのが一番だよ。


・ 私の詩はすべて機会の詩だ。すべて現実によって刺激され、現実に根拠と基盤をもつ。根も葉もないつくりものの詩を私は尊重しない。・・・私は、いまだかって自分の詩を飾ったことはない。自分の体験しなかったこと、痛切に感じもせず、苦しみもしなかったことを、詩に書いたり、口にしたこともない。


・ 結局のところ、何を自分で得るのか、それを他人から得るのか、また自力で活動するのか、他人の力をかりて活動するのかというようなことは、すべて愚問だね。つまり大事なことは、すぐれた意志をもっているかどうか、そしてそれを成就するだけの技能と忍耐力をもっているかどうかだよ。そのほかのことはみな、どうでもいいのだ。


・ 私は、フランス人の支配から解放された時には、神に感謝したものの、フランス人を憎んではいなかった。文化と野蛮の問題だけを重視している私にとっては、地上でもっとも文化の進んだ国の一つであり、私自身の教養の大部分がそのお陰をこうむっている国民を、どうして憎めたろう。


・ もし私が、自分の性質にキリストへの畏敬の念をささげる気持ちがあるかと問われたら、私は、しかり、と答えよう。私は道徳の最高原理の神々しい啓示として、彼の前に身をこごめる。しかし、もし、私が使徒ペトロや使徒パウロの親指の骨におじぎをするかと問われたら、私は、ごめんこうむろう、そんなばかばかしいことはまっぴらだ。


ゲーテのこのような言葉を戦場で読んでいた水木しげるが、上官からのびんたを何度食らっても、その理不尽なびんたに全く卑屈にならならず、ひょうひょうと土人部落を訪れて惰眠をむさぼったのが分かるような気がする。

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