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曲直瀬道三

  • yokando2
  • 2023年11月3日
  • 読了時間: 2分

初代曲直瀬道三(1507~1594年)は、名は正盛または正慶、字は一渓で、雖知苦斎(すいちくさい)または蓋静翁(こうせいおう)と号し、院号は翠竹院(すいちくいん)、後に亨徳院(こうとくいん)と言った。


一渓は、生まれた翌日に父を失い、続いて母もこの世を去ったので、伯母と姉に育てられた。幼い頃より聡明利発で、10歳のとき江州守山の天光寺に入り、13歳のとき京都の相国寺に移り、蔵集軒というところに住んで喝食(かつじき)となり、名を等皓(とうこう)と称した。22歳のとき、肥後の西友鷗と共に関東に遊び、下野の足利学校に入った。そこで正文伯に師事して経史、諸子の学を勉強した。そのころ明の留学から帰っていた田代三喜と、享保4年(1531年)に柳津で会い、その門に入って李朱医学を講究することとなった。師事すること数年、稽首尊礼、素問及び玉機微義の論を学び、古来の緒論、諸方の可否を明らかにし、用薬百二十種の効能を伝授され、天文14年(1545年)、京都に帰った。翌年、僧をやめ俗に還り、医術を専業とするようになった。


道三は、京都に学舎啓迪院を造って門人弟子を養成するかたわら、医療をもって門戸を張り、診療に従事すること30余年に及んだ。この間、将軍足利義輝をはじめ、細川晴元、三好修理、松本弾正など多くの知名人を治療し、すこぶる効験があり、全国に名声が広がった。そして、従来わが国に察病弁治の全書が全くなかったのを遺憾に思い、天正2年(1574年)、自らの治験経験を基礎とし、古来の医書を参考にし、その精粋を選抜拾収して八巻に及ぶ『啓迪集』を完成させた。


道三は、晩年、豊臣、徳川二氏に重んぜられ、しばしば招かれたがお断りして、深く医に隠れて出仕しなかった。文禄3年(1594年)、1月4日、病により88歳で没した。墓は京都十念寺にあり、碑面にはただ「一渓道三居士」の六字が刻まれているばかりである。


道三は、生涯、多くの書物を編纂した。主なものは以下の通り。


『啓迪集』8巻

『雲陣夜話』1巻

『切紙』2巻

『老師雑話』1巻

『出証配剤』1巻

『薬性能毒』1巻

『遐齢小児方』1巻

『全九集』7巻

『医療衆方規矩』(二代目玄朔が加筆)

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