四国88か所巡礼の旅
- yokando2
- 2023年7月29日
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四国88か所巡礼の旅
2019年、五月の連休明の5月8日に四国巡礼の旅に出て、5月21日名古屋に戻った。まるまる2週間、13泊14日の四国巡礼の旅である。四国八十八カ所のうち34カ所を巡り、ついでに現存天守の城4カ所を訪れることができた。四国霊場は19番立江寺から76番金倉寺までのうちの34寺、お城は高知城、宇和島城、松山城、丸亀城の4城で、ほかに、大江健三郎の生家や一遍上人の生家と修行の地を回った。また、思いがけなくも、土佐日記の紀貫之の赴任先や蛮社の獄の高野長英の逃亡先を訪れることも出来た。2週間での歩行距離は270㎞で、八十八カ所総延長1400㎞のおよそ2割の距離を歩いたことになる。
5月8日(水)晴
名古屋駅から阿波赤石駅までJR、ビジネス旅館「あかいし」に泊まる。
5月9日(木)曇一時小雨【歩行35km】
旅館――19番立江寺(たつえじ)――20番鶴林寺(かくりんじ)――21番太龍寺(たいりゅうじ)――阿瀬比手前、川沿いの荒地にテント泊。
5月10日(金)晴【歩行10㎞】
テント――22番平等寺(びょうどうじ)――新野駅(JR)日和佐駅――23番薬王寺(やくおうじ)、日和佐城見学、大浜海岸にテント泊。
5月11日(土)快晴【歩行15㎞】
テント、日和佐駅(JR)海部駅(阿佐海岸鉄道)甲浦駅(バス)大師像前――御厨人窟(みくろど)――灌頂ケ浜――24番最御崎寺(ほつみさきじ)――室戸岬灯台――25番津照寺(しんしょうじ)――26番金剛頂寺(こんごうちょうじ)――元(バス)半奈利、駅前の緑地公園内にテント泊。
5月12日(日)快晴【歩行14㎞】
テント、半奈利駅(土佐くろしお鉄道)唐浜駅――27番神峯寺(こうのみねじ)――唐浜駅(土佐くろしお鉄道)御免駅――29番国分寺(こくぶんじ)――紀貫之邸跡――土佐国衙跡――御免駅(JR)高知駅、高知城見学、ホテル「タウン錦川」泊。
5月13日(月)晴【歩行7㎞】
ホテル、高知駅(JR)窪川駅――37番岩本寺(いわもとじ)――窪川駅(JR)宇和島駅、宇和島城、高野長英隠れ家見学、宇和島駅(JR)内子駅――お遍路無料宿泊。
5月14日(火)曇一時小雨【歩行30㎞】
遍路宿――大瀬、大江健三郎生家見学、大瀬(バス)小田支所――45番岩屋寺(いわやじ)、一遍上人修行の地、参道駐車場にテント泊。
5月15日(水)晴時々曇【歩行26㎞】
テント――44番大寶寺(だいほうじ)――久万中学校前(バス)塩ヶ森――46番浄瑠璃寺(じょうるりじ)――47番八坂寺(やさかじ)――48番西林寺(さいりんじ)――杖の淵――49番浄土寺(じょうどじ)――杖の淵公園内にテント泊。
5月16日(木)晴時々曇【歩行11㎞】
テント――50番繁多寺(はんたじ)――51番石手寺(いしてじ)――宝厳寺(ほうごんじ)、一遍上人生家――道後温泉、木賃宿「どうごや」泊。
5月17日(金)晴時々曇【歩行30㎞】
木賃宿――松山駅(JR)伊予小松駅――62番宝寿寺(ほうじゅじ)――61番香園寺(こうおんじ)――60番横峰寺(よこみねじ)、奥の院星ケ森――伊予小松駅(JR)伊予三島駅――三島公園、小屋の横にテント泊。
5月18日(土)晴時々曇【歩行33㎞】
テント――65番三角寺(さんかくじ)――66番雲辺寺(うんぺんじ)、通夜堂泊。
5月19日(日)晴後曇【歩行29㎞】
通夜堂――67番大興寺(だいこうじ)――68番神恵院(じんねいん)、69番観音寺(かんのんじ)――70番本山寺(もとやまじ)――本山駅(JR)みの駅――71番弥谷寺(いやだにじ)、境内にテント泊。
5月20日(月)晴時々曇夜雨【歩行15㎞】
テント――72番曼荼羅寺(まんだらじ)――73番出釈迦寺(しゅっしゃかじ)、奥の院捨身誓願之聖地――74番甲山寺(こうやまじ)――75番善通寺(ぜんつうじ)――善通寺駅(JR)琴平駅――金刀比羅宮、奥社――琴平駅、ゲストハウス「ZouZu」泊。
5月21日(火)晴【歩行10㎞】
ゲストハウス、琴平駅(JR)塩入駅――満濃池、別格17番神野寺(かんのじ)――塩入駅(JR)金蔵駅――76番金倉寺(こんぞうじ)――丸亀城見学――丸亀駅(JR)名古屋駅。
四国巡礼の始まり。
“永き日や衛門三郎浄瑠理寺”
明治29年、正岡子規が故郷の松山を偲んで詠んだ句である。衛門三郎というのは、平安初期に四国巡礼を始めたという、伝説上の人物である。その邸宅が46番札所の浄瑠璃寺の中にあったという。
5月15日
私は、44番大寶寺からこの浄瑠璃寺に向かうのにバスを利用した。浄瑠璃寺から西に3㎞程離れた峠のバス停「塩ヶ森」で下車して、歩いて浄瑠璃寺に入った。浄瑠璃寺を少し北に歩くと、衛門三郎が四国巡礼の旅に出発したとされる47番札所八坂寺がある。私は、ここで、お遍路の必需品の一つである経本を買った。『眞言宗豐山派檀信徒のおつとめ』というもので、わずか200円。朝暮勤行心得から般若心経も観音経も十三仏真言も掲載されている優れものだ。
この日の最後は48番西林寺。仁王門を一礼してくぐり、手水場で手を洗い、口をすすぐ。本堂まで歩き、本尊十一面観世音菩薩の真言“おんあろりきゃそわか”を三回唱え、次に大師堂で“南無不動大師浄円”を三回唱える。私の場合は、“南無大師金剛遍照”ではなく、“南無不動大師浄円”なのだ。それから、護摩堂でお経を唱える。お経は般若心経が普通なのだが、私は、今勉強中の中国語のNHKテキスト『おもてなしの中国語』の中の一文を唱えた。それから、鐘楼堂の鐘を撞く。余談だが、私は、鐘を撞くのはすべてのお参りが終わってからするものと勘違いしていた。ところが、鐘はお参り前に撞くのが正しい作法というのだ。これを知ったのが、最終日前日の75番善通寺を終えたあとだったので、翌日、76番札所の金倉寺を訪問し,ようやく、正しい順序で鐘を撞いた次第である。
さて、すべての参拝をすまし、私は、仁王門の前の腰掛に坐っていると、おじさんが一人近寄って来て、私に話しかけた。このおじさんは、数年前にリタイヤし、今は、ときどき西林寺まで歩いてきて、お遍路さんたちとお話しするのを楽しみにしているという。お遍路さんには、最近、外人さんが増えているそうだ。その外人さんで、西林寺まできて、歩き疲れ、腰掛でへばっているのをよく見かけるそうだ。そして、その外人さんたちに、寝泊まりのできる東屋を紹介してあげるという。その東屋があるのが、西林寺から500メートルほどの引き返したところにある杖が淵公園の中で、名水も湧いているという。私は、杖が淵公園まで歩き、そこにテントを張ることにした。テントを広げていると、別のおじさんが近寄ってきて、話しだした。自分は、公園の隣に住んでいる、この公園は西林寺の奥の院になっていて、池の中に突き出した所に建っているお堂は今年の5月1日に建立されたものだ、と教えてくれた。ってことは、このお堂は令和で最初に建立されたお堂ということになるではないか。
“残金一銭五厘也の少し以前から私たちは既に宿代にも差し閊(つか)えるほど困っていた。すると道後で同宿した石川県の人から思いがけなく若干金の寄付に預かった。この人も修業しながら道中する人で、無論此方から内情を打ち明けるという事もないのに、失礼だが餞別にというので、実は案外な思いをしたのであった。お大師様のお助けだとばかし、お爺さまは涙を流しながら喜ばれる。そのうちにまたお金が足りなくなった。すると此度は街道の真ン中でかたまり合って落ちている銀貨数個が私の目に入った。きっと今すれ合った人がお落しなすったのだと思ったので慌てて追っかけたが駄目であった。するとお爺さまは「イヤこれも御助けに違いない。有難い有難い」と拾いなさる。それから八幡浜について大分からの返電を待つ内に二、三日は過ぎた。実は郵便局の無責任なために早くから着いていたものを何度たずねてもまだ来てないというので、此方からはお金を借て電報を打つ。大分からはモウオクツタヨクシラベテミヨとの返電が来る。漸(やっ)と汽船賃が手に入ったけれど切符を買った残りは五十銭也で始末に了(お)えない。何故なら佐賀の関まで船でいくとしてその先きが大分まで七里からあるのだもの。よし! 深夜でも構わない歩き通そう――と相談していると無論誰一人そうした事を知らないけれども乗客の一人からこれまた案外な寄付を受けた。曰くお大師さまに上げるのですというのだ。”
これは、大正7年、24歳の高群逸枝が四国を逆打ちで巡礼したときの紀行文『娘巡礼記』の一節である。このように、四国八十八カ所を歩いていて、何か困ったことに遭うと、どういうわけか誰かが助けてくれる。今回の私の場合もそういうことが度々あった。2週間のうち、翌日が雨の予想になることが2、3回あったが、いずれの場合も当日になると、雨は降らず、降っても小雨程度の歩くにはかえって好都合の天気になった。坂道をあえぎながら、喉をからからにして登っていると、道端に伊予柑のたくさん入った段ボール箱が置いてあって、「どうぞお食べ下さい」と張り紙がしてあった。そして、西林寺では、宿に泊まろうかと思案していた私に話しかけてきたおじさんが、格好の野宿場所を教えてくれたわけだ。
青年とポルトガル娘との出会いがあった。
5月18日
私は三島公園を朝早くたち、65番三角寺を経て、だらだらと続く坂道を、八十八カ所で一番高いところにある66番雲辺寺を目指して歩いていた。もし、疲れてたどり着けなかったら、どこか道端にでもテントを張ろうかなどと、思いながら歩いていた。すると、狭い山道から急に広い林道に出て、そこにあったベンチに腰掛けていた男性から声をかけられた。「きょうはどこまで行かれるか」と聞かれたので、「雲辺寺まで」と答えると、「雲辺寺の周りには宿はないけど、境内に通夜堂があるはずだ」とおっしゃる。私は、お遍路を無料で泊めてくれる“通夜堂”なるものが、いくつかのお寺にはあることを初めて知った。
その日の夜、雲辺寺の通夜堂には私のほかに2人が泊まった。わずか三畳ほどの部屋だから、3人でいっぱいである。あとから、一人、お坊さんに案内されてきた人がいたが、可哀そうだが、追い返されてしまった。3人のうち、一人は32歳の東京出身の青年で、もう一人は、おそらく30代であろう年頃のポルトガルから来た女性だった。三人とも、前の日の夜は伊予三島にある公園で野宿していた。私が三島公園で、青年が海よりの伊予三島運動公園で、ポルトガル娘が山よりの戸川公園だった。
青年は、インテリア関係の会社に勤めていて、人々に快適な住居を提供することに生きがいを見出していたが、住まいよりも食べ物のほうがより一層大切じゃないかと思いはじめ、遂に今年その会社を辞め、健全な食材を提供できる農業を目指すことにしたそうだ。そして、7月からは千葉で農業研修を受けることになっている。それまで時間があるので、念願であった四国八十八カ所を歩いて回ることにしたという。1番札所の霊山寺を出発してからこの日で32日目だという。
ポルトガル娘の方は、世界中を駆けまわっている。日本にも何度か来ていて、英語教師をしたことがある。ブラジル、アメリカ、香港、台湾、イギリス、スコットランド、フランス、イタリアなどを遍歴したそうだ。多くは、それぞれの国の農家に滞在して農作業のバイトをした。農家は農家でも、オーガニックのみで、ケミカルの農家は避けるという。青年と同じような志向である。台湾ではモスキートの襲撃で両手両足に100カ所近くの瘢痕をこさえたらしい。また、ブラジルではカカオからチョコレートまでの加工方法を習得したという。この彼女、日本語は片言しか話せないが、英語はネイティブ並みで、ほかにフランス語、スペイン語、イタリア語、フランス語が話せるという。しかも、日本語とドイツ語は文字を読んでおおよその意味が理解できるというから、驚異的だ。彼女は寝袋持参の歩き遍路で、1番札所を出発してからこの日が38日目だという。
私は、二人に、今まで訪問したお寺で一番よかったのはどこか、聞いてみた。青年は、足摺岬の38番金剛福寺で、ポルトガル娘は21番太龍寺だと答えた。青年は、理由として、自然のパワーが感じられ、池にかかった低い橋も風情があったと言う。ポルトガル娘の方は、今回の旅で知り合った友達といっしょにたどり着けた喜びが大きかったからだという。しかも、一番よくなかったお寺は29番国分寺で、理由はその友達とそこで気まずくなって別れてしまったからだという。
ところで、ポルトガル娘が言うには、歩き遍路による八十八カ所巡りは、50日間、5万円で可能、食費を一日1000円以内で済ませればよいとのこと。一日3000円を想定していた私は、少々気が引けた。夜は、公園の東屋かバス停かお寺の通夜堂か無料宿、最悪道端に寝袋一つで泊まるし、すべて歩きだから交通費もかからぬ。実際、38日目のこの日までにかかった経費が3万7000円ほどだと言うから、偉い。
一人旅の尼さんとの出会いがあった。
5月19日
私は「ことひき道の駅」の老舗うどん店「きたの」でうどん定食を食べ、琴弾山の琴弾八幡宮に詣で、参詣後、麓の69番観音寺まで降りた。すると、境内の木陰で休んでいる若い尼さんを見かけた。昨日、雲辺寺の通夜堂で追い返された人である。小柄で端正な顔立ちの尼さんだ。リュックが大きく、歩く姿を後ろから見ると、まさにリュックが歩いているような感じだった。
「昨日は、大変でしたね、通夜堂に入れず、どうされましたか」と私が問うと、「あれから、お坊さんが手配してくださり、ロープウェイで下まで降りることができました」という答えが返ってきた。会話はそれで終わった。次の69番本山寺でも、その尼さんを見かけた。翌日、72番曼荼羅寺でもお会いし、互いに会釈した。そして、74番甲山寺を出て、私が道に迷っていると、その尼さんが通りかかり、行き道を教えてくれた。私は、その尼さんの後を歩いた。そのままついて行けば、75番善通寺にたどり着けると思ったからである。ところが、ふと目を離したすきに、その尼さんの姿が消えた。
5月20日
午後、善通寺参拝を終えて大川製麺所のうどんを食した私は、善通寺駅からJRでひと駅の琴平駅まで行った。駅の近くのゲストハウスに荷物を置いて、金刀比羅宮に詣でた。大物主神と崇徳天皇が祀られている本宮まで785段、さらに厳魂彦命が祀られている奥社まで行くとなると、全1368段の石段を登らなければならない。本宮まで登るのも大変で、さらに奥社まで行く人は少ない。私は奥社まで行き、厳魂神社でお参りをすまして引き返した。本宮までもどって、びっくりした。尼さんに再会したのだ。僧衣の尼さんを神社で見かけるのはなんとなく変な感じで、目立った。「あら、またお会いしましたね」と一声かけたら、尼さんもびっくりして微笑んだ。「それでは、お元気で」と互いにあいさつを交わして別れた。
私は、ゲストハウスに戻り、シャワーを浴びて、さっぱりしてから、夕食の食材とお酒を買いに街に出た。少しさびれた商店街には何も売っていなかった。結局、駅の待合の横のセブンイレブンで食材を仕入れて帰った。帰って、またまたびっくりした。あの尼さんが、普段着に着替えて、フロント横のドリンクバーのテーブルで食事をしているのだ。なんというめぐり合わせだろう。私たちは、不思議な縁を感じながら、お互いの身の上を語り合った。
尼さんは、26歳のときに、とある住職を慕って仏門に入り、今年で6年目になるという。四国へは毎年やって来ており、今年は5回目になる。最初の時はすべてを歩きで通したが、今年は、無理をせず、車に乗っけてくれる人があれば、ありがたくお受けするようにしているという。基本的には野宿なのだが、この日のように雨の予想が出ておれば宿に泊まりもするそうだ。何故、琴平まで来たかというと、満濃池にある別格17番の神野寺に行く途中になるからだという。
私は、四国巡礼に別格があることを初めて知った。全部で20カ所あり、今年、尼さんは、88カ所と別格20カ所、合わせて108カ所を回っているのだという。尼さんの暮らすお寺は鹿児島県の枕崎にある。そこの住職は5年前に亡くなり、今は奥さんがあとを継いでおられる。奥さんは僧侶ではないが、お弟子さんたちが多くいて、先代住職の意志は問題なく受け継がれているという。
その先代住職だが、熊本の菊池の出身で、若いころ、山中で10年間、娑婆で10年間修行され、格段のパワーを身につけられたようだ。宗派は真言宗なのだが、宗派へのこだわりはなく、アメリカ、イギリス、イタリアなどにも出向き、それぞれの地で7つのパワースポットを探し当て、その地を巡れば、わざわざ日本に出向かなくとも四国八十八カ所を巡ったと同じご利益が受けられるようにされたそうだ。また、一遍上人のように、修行の一環として踊りを取り入れられ、男の弟子には女装させ、女の弟子には男装させて、演歌に合わせて踊らせるのだともいう。カラフルでユニークな仏像を多くこしらえてもおられる。
ところで、この寺には、今年88歳になるお弟子さんがいる。薩摩のラストサムライのひ孫だという。この弟子は、幼少のころから宗教心が強く、世界各地の霊地を訪れ、さまざまな宗教体験を積んだ。そして、ユダヤ教を極めるために連れ合いとともにイスラエルに滞在していたときのことだ。ユダヤの教えを突き詰めれば自殺しかない、そこに救いはないと悟り、突然、連れ合いをその地に置き去りにして日本に帰ったという。それから、四国第88番札所の大窪寺に参拝し、境内にテントを張り、一晩をそこで過した。その夜、なんと、彼の前に弘法大師が出現した。今まで、いろいろなところを巡ったけれども、姿を現されたのは弘法大師が初めてだったという。イエス・キリストもムハンマドも現れなかった。やはり、即身成仏だ、と得心がいったそうだ。そこで、彼は、四国八十八カ所を巡ることにした。その途中、件の枕崎のお寺の弟子の一人に出合い、意気投合し、そのまま、いっしょに鹿児島に帰り、その寺に滞在し、現在に至っているという。青い鳥を探して森の中に入ったが、結局青い鳥は自分の家の中にいた、というのと同じだ。奇特な話である。
私は、翌朝、その尼さんと手作りパンの朝食をともにし、そのあと一人で満濃池に行った。もちろん、湖畔にある別格17番神野寺にも参拝した。
四国遍路は、最近は外人さんが多い。
5月14日
内子町のお遍路無料宿を早朝に出発した私は、大瀬の大江健三郎生家まで歩き、そこから町内バスに乗り、終点の小田支所で降りた。降りたのは白人女性と私の二人だけだった。白人女性は44番大寶寺、私は45番岩屋寺を目指していたので、途中まで一緒に歩くことになった。彼女はアイルランドの出身で、韓国の友人から四国八十八カ所のこと聞き、やって来たという。体はでかいが、おそらく30代の娘さんだ。4月に来日し、1番札所から歩いてきたという。彼女は、私と同じく、公共の交通手段を使えるところは利用している。彼女は、平坦な道を歩くのは得意だが、山道は苦手なようだ。二人で歩いていると、自然、平坦な道は彼女が先を歩き、山道は私が先を歩く。車の多い国道を歩いていて、車がやって来ると、彼女は“Keep in”と私に声をかけてくれる。トンネルの中を歩くのも馴れたもので、暗くて前が見えなくなると、さっと懐中電灯を取り出して照らしてくれる。結局、小田支所から国道33号に出るまでの約15㎞を二人で歩いて、別れた。“大寶寺3.4㎞、岩屋寺9.5㎞”の道標の所だ。
5月16日
50番繁多寺、51番石手寺を参拝し、最後に一遍上人生誕の地である宝厳寺を訪れたあと、私は道後温泉本館の近くにある木賃宿「どうごや」で草鞋を脱いだ。リュックを部屋において、すぐに出かけ、道後温泉本館の神の湯に入った。410円。そんじょそこらのスーパー銭湯よりも安い。ひと風呂浴びて、路面電車に乗って大街道で降り、歩いて松山城に登った。本丸から二の丸の方に下り、そのまま松山駅まで歩き、駅構内のうどん屋でじゃこ天うどんと道後ビールでひと息つき、どぶろくを買って宿に戻った。寝所は4人相部屋で、この日は2人だった。大きな部屋を衝立で4つに仕切ってあり、私の隣を見ると、リュックの中の荷物が乱雑に放り出したままにしてあった。ちょっといやな客と相部屋になったもんだ、と思った。私は、どぶろくを持って階段を下りて、和室のリビングルームに入った。そこで、ちびちびやっていると、突然、浴衣姿の若い白人の女の子が入って来た。スマホをいじりだしたので、ちょっと声をかけてみた。
“Where are you from?”
“From Germany.”
“Are you a student?”
“Just graduated.”
“Working holiday?”
“Yes.”
“When did you come to Japan?”
“In April.”
“Where did you go?”
“I visited Kyusyu.”
“Are you going to walk 88 Shikoku sacred sites?”
“May be.”
ドイツから来たこの娘は、とびっきりの別嬪さんだ。会話が途切れ、私がちびりちびりとやりはじめたら、いつのまにかいなくなった。どぶろくを飲み終え、部屋に戻ると、なんと彼女がいた。私の、衝立を隔てた隣のスペースに、彼女が寝るのだ。とんでもないことになった。見ず知らずの若い女性と同じ部屋に寝るなって、めったにないことだ。
翌5月17日
私は、朝早く起きて、隣でまだ眠っているドイツ娘に、小さい声で“Have a nice trip”と声をかけて、宿を出た。この日は、JRで松山駅から伊予小松駅まで行き、そこから62番宝寿寺、61番香園寺と歩き、香園寺にリュックを置いて、60番横峰寺を目指した。およそ10㎞の山道である。中腹の分かれ道で、木のベンチに腰かけている若い白人女性に会った。私は、彼女と離れたベンチに腰かけ、大声を出して聞いた。”Where are you from? What your country?” 彼女は、アメリカ出身だと答えた。一人旅で、やはり、1番札所から歩いているという。なんともはや、白人女性たちのたくましいことか。
そして、その翌日、5月18日、私は雲辺寺の通夜堂で件のポルトガル娘と一夜を過すはめになったのである。英会話の実体験ができるし、若い女性たちとのコミュニケーションも楽しめる。四国は本当に魅了あるところである。
四国を旅した人は、必ずもう一度来たくなるという。
今回の四国の旅を終えて数日が立った。が、もう、懐かしく思いだしている。室戸岬御厨人窟から望む空と海、灌頂ケ浜の奇岩、室戸岬灯台から見た太平洋の大海原、JR予土線から垣間見えた四万十川にかかる10数カ所の沈下橋、横峰寺奥の院の星ケ森から見た石鎚山の雄姿、出釈迦寺奥の院の捨身ケ嶽から見た瀬戸内海に点在する小島の数々・・・。2週間、まるで、夢の世界にいたかのような感じがする。
なぜだろうか。日本の昔ながらの自然や風情が残っているからだろうか。目に飛び込む棚田や麦畑、田んぼのオタマジャクシに畑のレンゲソウのせいだろうか。旅行中に受けた心地よい風のせいだろうか。新緑や野焼きや懐かしい田舎の金肥のにおいのせいだろうか。海岸に打ち寄せる波音、川の清流のせせらぎ、藻の中彼の鳥のさえずり、田んぼのカエルの合唱など、耳から入るいろいろな音のせいだろうか。日和佐のカツオのたたき、宇和島の鯛めし、松山のじゃこ天、丸亀の讃岐うどんなどに舌鼓を打ったせいだろうか。地元の人たちのお接待が温かいからだろうか。道中のいろいろな方たちとの出会いのせいだろうか。分からない。
“早く歩くか
ゆっくり歩くか
なん日で歩くか
なん回廻るか
そんな事より
しっかり歩け“
道中、こんな、張り紙を見付けた。ただひたすらに歩く。ただひたすらに、何も考えずに歩く時間をもつ、そのことも四国遍路の魅力かもしれない。
私は、旅の途中から、携帯の電源を切った。家族や職場からの音信が途絶え、写真も撮らない。時計も持たないから時間も分からない。すると、私の五感が鋭くなった。しっかりと目に焼き付け、耳で聞くようになった。昼は太陽の方位や高さで時間を推し量り、夜は月の形や位置で夜明けまでの時間を推量した。いろいろな鳥の声を聴き分け、ホトトギスの鳴き声で夜が明けたことを知ったこともある。お腹のすき具合で昼の時間を察知した。脚の痛みや息苦しさで歩行のペースを加減しもした。もくもくと、ひたすら歩いていると、鳥がやってきて近くでさえずりだすこともあった。ふと見上げると、インドネシアからやって来たという娘が微笑んでいたこともあった。自然の中で生きている、自然に生かされている、そして周りの人たちに生かされている、と実感できるようになった。孤独感が消失した。まさに同行二人である。
やはり、四国は不思議の国である。
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