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備急千金要方

  • yokando2
  • 2019年9月23日
  • 読了時間: 3分

更新日:2019年9月25日

孫思邈(581年-682年)は唐代の医者で、100歳を超える長寿をたもち、『備急千金要方』30巻、『千金翼方』30巻などの著名な著作があります。


『備急千金要方』は中国古典医学の専門書で、薬方の理論と処方について多くが語られています。鍼灸についても1割程度の記述があります。


孫思邈は、『備急千金要方』の自序冒頭で、中国の古典医学の歴史を振り返っています。実に簡明で分かりやすいので、以下に引用しておきます。


“それ清と濁が分かれて開かれ、上と下が所を分かち、天地人の三元の基が固まり、木火土金水の五行が整い定着したが、万物はなお純朴そのものだった。その後、燧人氏が現われ、北斗を観て方位を定め、初めて火の効用が示され、ついで伏羲氏が八卦を作り、調理法をあみ出してから、諸物の味覚がわかりはじめ、諸病もこれにともなって発生した。

大聖神農氏は庶民の多病を憐れみ、百草をなめ百薬を調製して治療救済したが、なおいまだ万全を尽くすことができなかった。黄帝は天命により九鍼を創造し、仙術士の岐伯、雷公らとともに、つぶさに経脈を検討し、ひろく難問を解明し、道理を詳細に究明し、もって経論を作り上げた。後世これによって医業が発展した。

春秋時代は良医に和、暖の二者ありて、六国の時には扁鵲、漢には倉公、仲景あり、魏に華佗あり、ひとしくみな深奥を探求し、微細の技を会得し、薬を用いては二、三服に過ぎず、灸を施しては七、八壮をこえずして、疾病をすべて癒さないものはなかった。“


また、孫思邈の人となりは、同じ自序の中の次の一節から垣間見えてくると思います。


“われ幼くして風冷に遭い、しばしば医家の門を訪れた。湯薬の費用で家産を使いつくしてしまった。ために青年時代から医書にあこがれ、白首の老年に至るも、つねにこれに親しみ手から放さなかった。そして脉診、診断、採薬、調合、服薬の節度、静養、禁忌等の事柄について、自分より長ずる者あれば、千里を遠しとせずして訪ね、これに学んで自分の決断の資とした。”


孫思邈は、諸書に通じた勤勉家で、しかも医者として徳の高い人でありました。そのことは、巻一の冒頭の章句から窺い知れるのであります。


“およそ名医になろうと欲するならば、必ず素問、甲乙経、黄帝鍼経、明堂、十二経脉、三部九候、五臓六腑、表裏孔穴、本草薬対を諳んじ、張仲景、王叔和、阮河南、范東陽、張苗等の医薬書もまたすべからく読み悟らねばならぬ・・・また群書を渉猟しなければならぬ。なんとなれば、もし五経を読まなくては仁義の道あるを知らず、三史を読まなくては古今の出来事を知らず、諸子百家の易学を読まなくては物事をすぐ判断できず、仏典を読まなくては慈悲喜捨の徳あるを知らず、老荘を読まなくては真理がわからず、すべての運用を行うことが出来ないので、ややもすれば縁起をかつぐ吉凶拘忌が事に触れて生じるのをまぬがれない。”


孫思邈は、医者が施術において心すべき点を以下のように述べております。われわれ鍼灸師にとっても、肝に銘ずべき言葉であります。


“およそ名医たらんとする者は治療に当たっては、必ず精神を安らかに統一し、欲求心を捨て、まず大悲大慈、惻隠の心を発し、あまねく庶民の苦痛を救うことを願うべきである。もし病苦の者が来て救けを求めるならば、その貴賤、貧富、長幼、美醜、敵味方、同族異族、愚智なるを問わず、あまねく至親の感情をもって一視同仁とし、また前後を考慮し、吉凶を恐れ、自己の身命を惜しむことなく、病者の苦悩を己の苦悩として深く同情し、危険、昼夜、寒暑、飢渇、疲労の別を避けず、一心に救済にあたり、為にする心や人に見せる心があってはならぬ。”

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