「一者」を説いたプロチノスの死後およそ千年、ドイツの地にエックハルト(1260?-1328年)が生まれ、実際に「一者」と合一する「離脱」を説く。プロチノスの「一者」は神以上のものだが、エックハルトの「一者」は神そのものである。神以上なのか、神そのものなのかは、さほど問題でなく、一者と合一することが肝心なのだ。
・離脱はあらゆる被造物から解き放たれている。
・心が悲しむことなく、純粋でいたいと思うなら、一なるものを持たねばならない。このことが離脱ということなのである。
・離脱はわたしを愛するように神に強いる。
・離脱は神以外の何ものも受けいれることがない。
・離脱は無であることを求める。
・離脱は自分自身の内にとどまったままでいる。
・真の離脱とは、襲いくるあらゆる愛や悲しみ、名誉や、恥辱や、誹謗に対して、精神が不動であることにほかならない。
・離脱した心の対象はあれでもなく、これでもなく、無である。
・離脱した心は何ひとつとして望むこともなければ、自由になりたいと思うようなことも何ひとつとして持っていない。
・離脱した心の祈りとは、神と同じ姿でいること、そのこと以外の何ものでもない。
・離脱は魂を浄化し、良心を澄ませ、心を燃えたたせ、霊を目覚めさせ、求める心を励まし、神を認識させ、被造物を切り離し、神と合一する。
以上、エックハルトの『離脱』を読んでいると、一遍上人の“本来無一物”が彷彿としてくる。一遍上人は1239年に生まれているから、ほぼエックハルトと同じ時代を生きていた。13世紀は、霊的なものが、今のコロナではないが、世界中に蔓延していた時代であったようだ。