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酒井雄哉


2017年1月のとある午後、NHKアーカイブスで1979年放送の「行 比叡山千日回峰」を再放送していた。思わず、立ったまま見入ってしまった。1979年は私の25歳のときだが、堂入りのシーンなど、いくつか記憶に残っているものがある。大阿闍梨の酒井雄哉さんの最初の千日回峰行のときのドキュメンタリーで、500日目のころから700日を終え、堂入りを完遂したころまでの密着取材である。


おそらく、この放送の映像が私の脳髄の奥に残っていて、30数年後の私自身の千日回峰チャレンジにつながった気がする。私は2011年2月から翌年の7月まで、32回、比叡山回峰行コースを歩いた。私の計算では、毎週1回ずつ行えば、20年で1000回となり、まがりなりにも1000日踏破できると考えたのだが、残念ながら、京都から名古屋に引っ越してしまったので、おじゃんになってしまった。


千日歩くだけなら私にもできると思う。しかし、700日を終えたのちにある9日間の飲まず食わずの堂入り、これは無理だ。人が災害に会って生き埋めになったりすると、生存の可能性がある限界が72時間ということで三日間集中的に捜索が行われるのが普通である。だから、9日間なんて、とても考えられない。しかも、単に飲食を断つだけではない、1日1回、午前2時に堂から200メートルの距離にある閼伽井に仏に供える水を汲みに行き、それから40分間の梵行があり、あとは坐して、ひたすら不動明王の真言を唱え続けるのだ。


テレビの映像では、堂入りのほかに、白装束に草鞋履きで、頭に笠をかぶり、右手に杖を持ち、山中を歩く酒井さんの姿が映し出されていた。歩くというより、走ると表現した方がよく、下り坂では、ぴょんぴょんと飛ぶが如く疾走される。1日の行の途中、一度だけ麓の雲仙院で坐ることができる。ここには暖かいお茶が置いてある。酒井さんは、ゆっくりと味わられる。この寺、40歳で妻を自殺で亡くした酒井さんが、その後出家し、山に入り、最初の6年間を過ごされたゆかりの寺なのだ。


酒井さんは、このドキュメンタリーで、堂入りの前後にインタビューを受けておられる。酒井さんの場合は、無動寺谷の明王堂での堂入りだったのだが、堂入りの最中もカメラは堂内で動き続ける。よけいなものが介入し、精神の集中に悪い影響を与えやしないかと、私なぞは恐れるのだが、そこは大阿闍梨だ、達観されていて、カメラが回っていようがいまいが、いつも通りに行をこなされ、平常心で淡々と語られる。「満行したら、あとは一生かけてひたすら化他行に入るつもりだ」とおっしゃる。


堂入りのときには従者が一人つくのだが、その従者によると、酒井さんも5日目に瞳孔が開きっぱなしなったそうだ。医者がいたら、まちがいなくドクターストップだろう。が、そのまま続行され、見事、堂入りを完遂された。その最後の日の水汲みのときに集まった信者たちの驚嘆のまなざしが印象的で、生き仏様を間近に見られる喜びに満ち溢れていた。


大阿闍梨の酒井雄哉(1926-2013年)さんは、千日回峰行(7年間)を55歳と62歳のときの2度満行されているが、2度成功したのは歴史上3人だけで、その中では一番の高齢で達成されている。『一日一生』や『ただ自然に』などの本の中で酒井さんの素顔に接することが出来るのだが、大偉業をやられた人物とは思われないほどざっくばらんで、まことに自然体である。


酒井さんは38歳で仏門に入り、10年後の48歳のときには常行三昧という荒行に成功されている。この常行三昧は90日間、堂に籠もり念仏を唱えながら阿弥陀佛を廻り一日20時間以上歩き続ける行で、座ることはできず縄床で2時間の仮眠が許されるだけである。明治時代にある僧がこの行に挑み、足が腫れあがり歩行不可能となり死去したことから、それ以降途絶えていたのであるが、酒井さんは千日回峰を行う前に満行されている。酒井さんは48歳から62歳までの15年間は歩き尽くめだったということになる。ただし、今でも世界の巡礼地を旅されているから、歩くことに関しては酒井さんはスペシャリストなのだ。


このような酒井さんも、常行三昧を始めて2日目には、さすがに血が全部下に下がって、足が象みたいにふくらんで、体が動かなくなり、頭の中が真っ白になって、パニック状態になった。そのとき、昔師匠に聞いた呼吸法の話がふーっと蘇ってきたという。


「息をふーっと吸って、吐く。吐くときは『ナー』、吸うときは『ムー』・・・。人は息を吐くときは前向きの格好になるんだね。息を吸うときはそり気味になる。呼吸のことはよく知らなかったけど、呼吸に意識を集中していたら気持ちが静まってきた。やがてしんどかった体から、かすかに念仏の声が聞こえてきたんだ。まーとか、うーっとかね。最初はたよりない声だったのに、だんだん腹に力が入っちゃって響くようになってきた。その声でぐるぐる回ったら、心が落ち着いてきた。落ち着いた心でぐるぐるぐるぐる念仏を唱えながら歩いているうちに、なにかしらんが、もしかして自分の体の中に仏様がいるんじゃないかっていう気持ちにさえなってきた。それが、呼吸の大きな力を知った瞬間だったんだ。」


ここで、千日回峰行がどういう行なのか、簡単に記しておく。


天台宗総本山、比叡山延暦寺で行われる荒行で、7年間延べ千日、山の峰々を1日40キロ以上歩く。1年目から3年目までが毎年100日間、4年目と5年目が200日ずつ、これで700日満行となり堂入りとなる。堂入りでは9日間飲食を断ち、不眠で真言を唱える。これを無事終えると、行者から阿闍梨となる。それからは、6年目に60キロを100日、7年目に80キロを100日と40キロを100日で、1000日満行となるのである。100日のうち1日は京都の市内をめぐる京都切り巡りがある。この日だけが他人のための行となるのだそうで、沿道にはたくさんの信者が阿闍梨の通過を待っている。


比叡山の千日回峰行はおよそ400年の歴史があるが、これまでに1000日満行を成し遂げたのは40数名で、10年に一人出る割合だ。さらに2回満行を達成したのは、歴史上2人しかいなかった。酒井さんは、放送の翌年、1980年の10月に1000日満行を達成されたのだが、なんとその半年後、再度千日回峰行を開始し、これも見事満行された。歴史上3人目となられたわけだ。


私は、生前の酒井さんを2度見かけている。一度は、私の千日回峰行の最中に、酒井さんが住んでおられた長寿院の近くの階段であり、もう一度は、大津市で行われた市民向けの酒井さんの講演会である。私は、生き仏様に二度も会えたのだ。生き仏様は、「一日一生」と言われる。朝起きて寝るまでが人の一生に相当する、この実感が、そう言わしめているのだ。


酒井雄哉さんの「人の心は歩く早さがちょうどいい」から。


・ 一つの目標を立てることが大切なんじゃないか。東京から新幹線に乗って博多へ行くんだと決めたら、博多行きの列車に乗って、どんなことがあっても降りないで博多へ行くんだ。・・・本線を目印にして、そこから離れすぎちゃったら、軌道修正して、また本線へ進んでいけばいい。


・ 行をしている最中に、「もう死んじゃうのとちがう?」と思ったことが何回もあるんだよ。そういう時でも、「やらなきゃならない、行くんだ!」と思ったら、前向きにものを考えているから、不思議と行けちゃうんだよね。


・ 行の最中に呼吸を正常にすると、体の動きがついてきて、体の動きがついてくると、心が穏やかになってくる。全部が一つになると、スーッと歩いていけるようになって、自然に集中力が高まって、無心になるっていう言葉で表現される状態になるんだな。そうすると、時間を忘れ、気がついてみたら、リズムに乗って、クルクル起動に乗っちゃうみたいに回りだすんだ。・・・お坊さんの世界では「身口意三業相応」というんだけれど、それがいかに大切かっていうことになるんだな。


私が比叡山を歩き始めたのは、酒井さんの「一日一生」を読んでからであるが、この本の中に面白い個所があるので、以下に紹介する。


酒井さんは千日回峰行を始める前に、西塔の浄土院で三年籠山をされたのだが、若い人といっしょに修業させてもらっていることに感謝し、人より早く起きてお勤めをしようと思い、夜中に起き、滝に打たれてから、根本中堂まで歩き、お参りし、阿弥陀堂に登り、山王院を経て浄土院まで戻る、ということを毎日されたそうだ。


ある明け方、阿弥陀堂の近くで琵琶湖の方を振り返ると、東の空をあかね色に染めながら朝日が上がってきていて、そして、しばらく歩くと、今度は山王院の近くで西の空にものすごく澄んだ青い月の光が照っていた。根本中堂にはお薬師さんが祀られていて、その両脇を日光菩薩と月光菩薩がかためているが、赤い朝日が日光菩薩で青い月が月光菩薩で、その光景を、今、お薬師さんが自分に見せてくれているのだと思われたそうである。


「すると、お薬師さんは、どこにいるんだろう。周りを見渡してもどこにも見あたらない。自分しかいない。そうだ、仏さんは自分の心の中にいるんだ」と、そのとき気付かれたのである。


「仏さんはいつも心の中にいる。」


鍼灸医学では、こころは内臓にあり、そのこころを統括するのが心である。したがって、心に宿る神が、仏さんということになる。神=仏なのである。

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