聖徳太子
- yokando2
- 2023年11月26日
- 読了時間: 2分

仏教には、おおまかにいえば、小乗、大乗、密教があり、小乗が、紀元前500年ころの釈迦誕生からの500年間、大乗が紀元前後ごろからの500年間、密教が紀元後500年ごろからの500年間に発達しており、小乗が釈迦の教えそのもので各自の平安を目指すもの、大乗が釈迦の教えを普遍化して大衆の平安を目指すもの、密教が庶民の儀式・信仰を大乗に取り込んで大衆への浸透を目指したものといえる。
聖徳太子、最澄、日蓮、宮沢賢治とくれば、共通するものは、法華経信仰である。法華経は大乗仏教の代表的な経典で、仏教が日本に伝来した6世紀頃は、輸入先の中国では大乗が盛んで、ぼちぼち密教の訳本が出始めていた時期だから、聖徳太子が法華経を学びその解説書を漢文で書いたというのは、至極当たり前の流れなのである。
聖徳太子(574-622年)は、「法華経」のほかに、同じ大乗仏教の「勝鬘経」、「維摩経」の解説書も書いている。その文章を読むと、真偽はさておき、ああ、これが日本の哲学の萌芽なのだ、としみじみ感じ入る。例えば、「勝鬘経義疏」では、経の冒頭の「是の如く我聞けり」の解説から始まるのだが、以下のように実にこまやかである。
・・・
「是の如く」というのは、一説法の全体を総括してとり挙げているという意味である。「如」というのは、二つのものが似ているのをいい、「是」というのは、二つのものが互いに違うことなく、一つになることをいう。説法する仏陀と説法を聞く弟子の阿難の声を比べれば、阿難は一種類の肉声<一音>だけであるが、仏陀は八つのすぐれた音声<八音>をもっているから、両者の間には大きな相違がある。つまり、金玉の声と肉声の声は同じではない。だが、声という点では似ている。それゆえに、経文においては「如」というのである。このように、一音と八音ないしは金口と肉声とでは、相違があるけれども、仏陀と阿難の両者において明らかにされる真理の教えに関しては、ただ一つである。それゆえに、道理上、「是」というのである。「我聞けり」というのは・・・。
Commentaires