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原田正純

  • yokando2
  • 2023年12月15日
  • 読了時間: 2分

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2012年6月11日、熊本県の医師で長く水俣の病患さんたちと関わってこられた原田正純(1934-2012)さんが亡くなられた。あのころ、原子力発電所の危険性を訴え続けた高木仁三郎さん、公害被害者の立場で公害問題を研究されてこられた環境学者の宇井純さんと、日本の高度成長期に、ぐっと足を踏ん張って、その中に埋もれている環境破壊の問題を提示し闘ってこられた方たちが、ぽつりぽつりと草葉の陰に隠れられると、残された私たちは、それこそ「しっかりせにゃならんばい」と、ハッパをかけられているような気になった。


水俣病が問題となった頃、私は小学生で、水俣のすぐ北にある八代に住んでいた。八代から水俣へは、赤松、佐敷、津奈木の通称三太郎峠という狭く急峻な曲がりくねった山道を通って行くのだが、危険な山道で、落っこちて亡くなった方も随分いたと、父から聞かされ、びくびくしながら車に乗っていた記憶がある。しかし、水俣に着くと、左に湯の鶴、右に湯の児というひなびた温泉場があり、海辺からは穏やかな不知火海の向こうに天草の島々が見え、海岸には海水浴場がいくつもあり、そこで私ら子供らは泳ぎ、大人らはお酒を飲みながら美味しいとりたてのカニを、一緒に来ていた日奈久の温泉街の芸子さんたちといっしょに食べていた。水俣はのどかな別天地であった。


そんな中で水俣病が起こったのである。私も、チッソ会社からの廃液で汚染されていた不知火海のカニや太刀魚などを食べていたので、今も少しは私の体の中に有機水銀が残っているかもしれない。当時は、マスコミや世間の噂に踊らされて、やはり、水俣の人たちを蔑視する感情が働いていたようだ。怖いですねえ。今、改めて、石牟礼道子さんや原田正純さんの本を読むと、当時の自分の無知が恥ずかしくなる。


以前放映されたテレビのインタビュー番組の最後で、原田正純さんは、次のように語られている。肝に命ずべき言葉である。


「水俣病というのは、単純に一会社が汚染物質を流して被害者を出したというのではなく、人間が便利さ、豊かさを求めた結果、自然を壊してしまったものなのです。自然を汚すと、その中にいる人間も汚れ、赤ちゃんも影響を受けます。また、自然の環境というものは私たちの次の世代にも受け継がれていくものですから、今、私たちはこの自然を本当に大切にしていかなければならないのです。」

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