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一遍上人

  • yokando2
  • 2023年9月25日
  • 読了時間: 3分

「メリークリスマス」とクリスチャンは言う。仏教徒は「南無阿弥陀仏」と唱える。


遊行の旅で熊野山に登った一遍(1239-1289年)に熊野権現が姿を現して、「信・不信を選ばず、浄・不浄を嫌わず、南無阿弥陀仏が往生するぞ」と教示した時、彼は解脱し、自力の我執を打ち捨て、只一念ほとけになるという他力に専心することができた。


「南無阿弥陀仏」と称えるのは、「南無」は「どうぞ」と働きかける庶民で、「阿弥陀仏」は働きかけられる仏のことをいうのであり、庶民と仏が「南無阿弥陀仏」において一体となることである。「往生」というのは、極楽浄土に行ってそこで生きることであり、「往」は観られる道理、「生」は観るという知恵であり、理と知がぴったりと合一することであると、一遍は悟ったのである。従って、「南無阿弥陀仏が往生する」ことになる訳だ。


「本来無一物、法(のり)に依り人に依らず」


一遍のことばである。ほかに、こんなのもある。


「念仏の行者は知恵をも愚痴をも捨て、善悪の境界をもすて、貴賎高下の道理をもすて、地獄を恐るる心をもすて、極楽を願う心をもすて、また諸宗の悟りをもすて、一切の事をすてて申す念仏こそ、弥陀超世の本願にもっともかなひ候へ。」


そして歌も詠んでいる。あるとき、野原を過ぎようとされると、人の骸骨が多く見えたので、


「惜しめどもつひに野原に捨ててけりはかなかりける人のはてかな」


兵部堅者重豪という人が、一遍が踊りながら念仏を唱えるので、これはけしからんと申したところ、一遍は次の歌を送った。


「跳ねばはね踊らばをどれ春駒ののりの道をば知る人ぞしる」


あるときは、こんな歌を詠んだ。


「いにしへはこころのままにしたがひぬ今はこころよ我にしたがえ」


また、宝満寺で由良の法燈国師に参禅し、一遍は次の歌を詠んだ。


「となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏の声ばかりして」


この歌を聞いた国師は「未徹在」とのたまった。そして一遍はこう詠んだ。まさに究極の南無阿弥陀仏である。


「となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏なむあみだ仏」



そして、兵庫の観音堂で亡くなりになる直前、一遍は辞世の歌を詠んだ。


「阿弥陀仏は迷ひ悟りの道たへてただ名にかなふ生き仏なり」


一遍上人は諸国を行脚し、46歳のとき、京都の四条京極の釈迦堂に滞在して賦算や踊念仏を行っている。賦算は南無阿弥陀仏の名号を書いた算(ふだ)を賦ることで、当時の人々はこぞってこの算をいただきに殺到したそうである。その釈迦堂が、現在、新京極にある「一遍上人念仏賦算遺跡」であり、そこは空海開基の染殿院である。昔、文徳天皇の后であった染殿后(藤原明子)が、ここの空海作の秘仏、地蔵菩薩に祈願して皇子を授かったということから、今でも、安産祈願に訪れる人が後を絶たない。


ひと昔前、宇治に住んで七条にある産科鍼灸院で修行していたころ、所用で新京極を通り抜けようとした。そのときに、石碑の「一遍」という文字が目に飛び込んできて、偶然知った訳だ。しかも、今、そこが安産の寺として知られているのであるから、不思議な縁である。


「同七年(1284年)閏四月十六日、関寺より四条京極の釈迦堂にいり給。貴賎上下群をなして、人はかへり見る事あたはず、車はめぐらすことをえざりき。一七日ののち、因幡堂にうつり給。(『一遍聖絵』から)」

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