ブレイク
- yokando2
- 2023年11月4日
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ウィリアム・ブレイク(William Blake、1757~1827年)は、靴下を製造する職人の子として、1757年、ロンドンに生まれ、1827年に死ぬまでの70年間を、サセックス州フェルパムで過ごした3年(1800~1803年)を除き、霧深いこの都市で送った。
ウィリアムには一人の兄と二人の弟と一人の妹があった。彼は幼少の頃から幻想力をもち、画才を示し、また父の信奉するスヴェーデンボリの著述などを好んで読んだ。10歳のとき、ストランド街のバーズ画塾に入学し、4年間、楽しく学んだ。14歳のとき、尚古学会専属の彫版師バザイアの弟子となり、芸術を信仰に結びつけることを生涯の仕事とする決意を固めた。
ブレイクは、1778年にバザイアの門を辞し、しばらく王立美術院に学んだのち、書物や雑誌の挿絵を彫版して生計をたてた。2歳年長の挿絵画家ストザード、スヴェーデンボリを信奉する彫刻家フラクスマン、スイス生まれの情熱の画家フュースリ等と知り合った。1792年には、父の友人の娘・カサリンと結婚した。結婚の翌年、牧師マシュー夫妻の好意で、処女作『小品詩集』を出版した。1974年には、マシュー夫人の出資を得て版画店を開いた。が、成績が思わしくなく、1787年に他所へ引っ越し、その後も幾度か住居を替え、貧困のうちに生涯を終えた。
ブレイクは、1973年の『天国と地獄の結婚』をはじめとし、その後数年間に、『アメリカ』、『ヨーロッパ』、『ユリゼンの書』、『アハニアの書』、『ロスの書』など、前期予言詩集のひとむれを次々と食刻した。中でも、1974年に開板された『無心の歌』『有心の歌』は、ブレイクの歌の一つの頂点とみなされている。その後、稿本のまま残された『ヴァーラ』、1804年から1808年に食刻された『ミルトン』、さらに1820年頃に完成された『イェルサレム』などの後期予言詩集の諸長編でもう一つの頂点を極めた。
ブレイクは、晩年、最後の大作として、ダンテの『神曲』の挿絵彫版の作成にとりかかった。ダンテを原文で読むため、イタリア語の勉強さえした。しかし、老齢で、病気の発作との闘いに明け暮れ、完成した7枚の図版と下絵の水彩画102枚を残し、1827年8月12日、世寿69歳で亡くなった。
ブレイクに愛された若い画家テイサムは、ブレイクの最後のありさまを次のように記している。
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その絵(テイサムが註文した彩飾版画)に手を加え終わってから、彼は叫んだ。「これでよい、わたしはわたしの力にできるだけのことをやった! 今まで描いた中では、これが一番よくできた。きっとテイサム君にも気に入るだろう。」彼は突然、その絵をのけて言った。「ケイトや、おまえはよい妻であってくれた。おまえの肖像をかいてあげよう。」カサリンが寝床近くに腰かけたとき、写生ではないけれども、画筆のあとがいかにも美しく表現された一枚の絵を、彼は作った。一時間ほども描き続けてから、彼はその絵を下に投げ、ハレルヤを、喜びと勝利の歌を、歌い始めたが、それは、節も詩句も二つながら、実に荘重なものであったと、ブレイク夫人は述べている。
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ブレイク:『経験の歌』の挿絵≪虎≫

ブレイク:『神曲』の挿絵《恋人たちの旋風》

ブレイク:『神曲』の挿絵≪戦車の上からダンテに語りかけるベアトリーチェ≫
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