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  • yokando2

韓非子


韓非は、もと韓の国の諸公子であったが、口吃であったため、貴族生活になじめず、思索の人となった。初め儒家の荀子に学び、のち法家の商鞅に師事し、その後数々の名文を生んだ。その中で、「孤憤」と「五蠹」が秦王政(のちの始皇帝)の目にとまり、以後、中国の権力者は韓非の法家思想を基本とすることになる。漢の時代以降は、建前上は儒家の考えが重んじられたが、基本的には、信賞必罰の法家の思想が政策の基本となっている。


ところで、秦王政は秦の宰相、呂不韋の子とされている。この呂不韋が百科事典「呂氏春秋」の編纂のために登用した食客のひとりに荀子の弟子の李斯がいた。李斯は韓非の出世をねたみ、そのため韓非は獄につながれ、李斯の届けた毒薬で自殺させられたのである。紀元前233年のことだ。秦王政が天下を統一して始皇帝となるのは、その12年後のことである。


とある学会で、中国の古典で何が一番面白いだろう、ということが話題になったとき、「それは韓非子だ」と、一人の先生がずばり言ってのけたそうである。その先生いわく、「説話が面白いし、論理は筋が通って気持ちがよい。」


例えば、「五蠹」の中はこんな調子である。イタリアのマキアベリが髣髴される。


「夫れ耕の力を用ふるや労なり。而れども民之を為すは、曰はく、以て富を得べければなり。戦ひの事たるや危し。而れども民之を為すは、曰はく、以て貴きを得べければなり。今文学を修め、言談を習ふとき、則ち耕の労無くして、富の実有り、戦ひの危き無くして、貴きの尊有れば、則ち人孰か為さざらんや。是を以て百人智を事として、一人力を用ふ。智を事とする者衆ければ、則ち法敗れ、力を用ふる者寡なければ、則ち国貧し。此れ世の乱るる所以なり。故に明主の国は、書簡の文無く、法を以て教へと為し、先王の語無く、吏を以て師と為し、私剣の捍無く、首を斬るを以て勇と為す。是を以て境内の民、其の言談する者は必ず法に軌し、動作する者は之を功に帰し、勇を為す者は之を軍に尽くす。是の故に事無ければ則ち国富み、事有れば則ち兵強し。」

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