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木村敏

  • yokando2
  • 2023年10月28日
  • 読了時間: 4分

精神科医の木村敏は若いころ、精神病者の異常体験を追体験するために、自分を被検者にLSD実験を行った。LSDを筋肉注射で投与されると、すぐに意識障害が現れて混迷状態になり、その後、意識が回復すると、部屋全体が色彩の渦につつまれ、ピアノの鍵盤を叩くと、音の一つひとつが色になってピアノから出てきたという。これは、「共感覚」といわれている現象で、音が色になって聞こえたり、匂いに色がついたりといったように、二つ以上の感覚が結びつく現象である。


しかし、この「共感覚」は一般の正常状態の人にも備わっており、この感覚がないと音楽でも単なる音の連続としか認識できず、絵画でも単なる色彩のちらばりとしか見えず、料理でも単なる味の混在としか感じられない。音楽や絵画を芸術として鑑賞できるのも、料理をおいしくいただけるのも、この「共感覚」があるからである。精神病患者やLSD服用者の感じる「共感覚」は、それが極端な形で出現したものといえる。


木村敏は若いころ、ひとりの若い女性の離人症患者に出会った。利発で整った顔立ちの華奢な女性で、いわゆる被差別部落の出身で、そのためにいろいろと心痛がたえず、子供のころから「自分とはどういうものだろう」という疑問を持ち続けていたそうだ。そして、17歳の夏に祇園祭の雑踏に巻き込まれ、「もし自分の心を一点に集中できなかったら大変なことになるだろう」という考えが頭をかすめたとたん、心が中心点を失ってばらばらになり、自分とはどんなものか完全に分からなくなってしまう。その後、何度か自殺も試み、23歳のときに木村敏が受け持つことになった。約1年間の入院期間中に彼女が語ってくれた体験は、次のような内容だ。


「自分というものがなくなってしまった。なにをしても、自分がしているという感じがない。感情というものがいっさいなくなって、嬉しくも悲しくもない。からだも別の人のからだをつけて歩いているみたい。物や景色を見ていると、自分がそれを見ているのではなく、物のほうが目のなかに飛び込んできて私を奪ってしまう。音楽を聞いても音が耳の中に入り込んでくるだけで、なんの内容も意味もない。時間の流れもひどくおかしい。時間がばらばらになってしまって先へ進んで行かない。つながりのない無数のいまが、いま、いま、いまと無茶苦茶出てくるだけ。自分というものも時間といっしょで、瞬間ごとに違った自分が、なんの規則もなくてんでばらばらに出ては消えてしまい、なんのつながりもない。空間の見え方もとてもおかしい。奥行きとか、遠さ、近さとかがなくなって、なにもかもひとつの平面に並んでいる。鉄のものを見ても重そうな感じがしないし、紙切れを見ても軽そうだとは思わない。とにかく、ものがそこにあるということがわからない。」


木村敏(1931~2021年)は精神科医としてスタートし、患者と接するなかで「自分とは何か」、「自分とは時間じゃないか」と思い到る。それから年を経て、生命体としての自分、「気」につつまれている自分を感じるようになった。多くの精神科医が患者をひとりの人間として診るのではなく、患者の中の病気だけを見るようになり、薬物投与第一主義に陥ると、精神医学に別れを告げて臨床哲学へ向かうことになる。彼の臨床哲学は2000年前に完成した東洋医学を、精神科の臨床をとおして再発見したことになるのではないかと思う。以下に、彼の哲学の変遷を哲学ノート風にまとめてみた。


フッサールの「現象学」

ノエシス(思考すること)とノエマ(思考されたもの)。


ハイデッガーの「現存在」

現存在(=自己を人間として理解している主体としての存在者)は、未来に、そのもっとも固有な「ありうる」ということ(=自己自身)に到来する。


西田幾多郎の「私と汝」

自己が自己に於て自己を見るとき、自己は自己に於て絶対の他を見ており、その絶対の他が即ち自己である。


ヴァイツゼカーの「ゲシュタルト」

人間は一個の「主体」として周囲の世界と感覚的・運動的に交わるという「主体性」を生きる。


木村敏の「あいだ」

「自己というもの」と「自己が自己であるということ」には間(あいだ)があり、われわれは自己というものを所有しているのではなく、絶えずそのつど自己自身にならねばならない。


木村敏の「時間」

リアリティ(=アル、物質の時間)とアクチュアリティ(=イル、生命の時間)


木村敏の「気」

「気」は人と人、人と宇宙のあいだにひろく偏在していて、各自がそれを分有することを通じてそれぞれのありかたを見出す。

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