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御嶽山

  • yokando2
  • 2023年7月29日
  • 読了時間: 23分


御嶽山の噴火した日

 

2014年9月27日、御嶽山が噴火した。あれから6年が経った。58人が死亡し5名が行方不明のままだ。あの日、私も山頂付近にいた。私がいた八丁ダルミでは16人が亡くなった。あの日の記憶を辿っていくことにする。

まだ夜の明けぬうちに起き、名古屋市内からJRを乗り継いで木曽福島駅に着いたのが8時半ごろ。木曽福島駅で待つこと10分ほどして、小さな村営バスが来た。日に三本しか運行しないバスである。乗車したのは私のほかに三人。私は運転手席のすぐ後ろに座った。王滝村の役場を過ぎて山道に入り、しばらく行くと、前方をサルの一群が道路を横切り、山から谷の方に下っていくのが見えた。ああ、御嶽山にはサルが生息しているんだ、とそのときは単純に思ったのだが、今ふりかえると、危険を察知した動物の行動だったのかもしれない。

 バスは予定通りに田の原の駐車場に着き、10時前、御嶽神社の鳥居をくぐって登り始める。遥拝所で、登山の無事を祈願する。天気がよければ、御嶽の絶景が拝める場所なのだが、ガスっていて見えない。しばらく歩くと、少しガスがとれ、周りの景色も見えるようになった。紅葉は八分程度に進んでおり、黄や赤に色づいている樹木が多い。

 八合目石室を通りすぎたところで、登山道の西の灌木の中につがいのライチョウを発見した。背中が黒白のまだらになっているのがオスで、茶色でじみな色彩なのがメスだ。今まで標高の高い山で何度かライチョウを見かけることはあったが、つがいのライチョウを見るのは初めてだった。背中をこちらに向けて夫婦仲良く西の方を見ていた。西の方は地獄谷である。ひょっとしたら、このライチョウも地獄谷に何か異変を感じていたのかもしれない。

 この日は、九月の最終週の土曜日で、紅葉も見ごろということで、小さいお子さんを連れた家族連れを多く見かけた。若いグループやお年寄りのグループ、中には外人さんのグループもあった。私は、気ままな一人歩きだから、これらの人々をどんどん追い抜いて行った。私が八丁ダルミに到着してからすぐに噴火が起きたのだから、私が追い抜いて行ったこれらの人たちは災難を逃れられたはずである。

 一口水という所で水を飲んだ。ここまで登ってくると、さすがに寒い。リュックからヤッケを取り出して着た。このことが、私が生きて帰れることにつながったのだから、今から思うと、一口水の冷気は神のお恵みだったのだ。

 標高2936メートルの王滝頂上に着いたのは11時42二分。登り始めてから二時間ほどだ。ちょうど、昼食の時間である。私と同じころに着いた10人ばかりのおばちゃんたちのグループは王滝頂上山荘横のベンチで食事しようと言っていたから、この人たちも難を逃れられただろう。

 私は、王滝頂上にある神殿にお参りをしてから、八丁ダルミへの下り道に出た。11時48分、噴火の4分前である。このとき、霧が晴れて、初めて剣が峰の雄姿を拝んだ。剣が峰への上り道を多くの登山者が歩いている姿が見えた。鞍部の八丁ダルミ周辺には十数人の登山者がいた。少し硫黄の匂いがした。御嶽山が火山だということは頭では十分わかっていても、御嶽山が実際に噴火を起す活火山だというイメージはなかった。

 11時50分、八丁ダルミの鞍部に着く。「御嶽教大御神火祭場」の神像群や「まごころの塔」のモニュメントがあるところだ。普段は風が強いところだというが、この日はさほど強くはなかった。

 私は、まず、硫黄の匂いのする西側斜面に向かって進み、そこから地獄谷の方を見た。気象庁のデータによると、11時41分に火山性微動が始まり、11時50分の少し前ぐらいから火山性地震が頻発しているのだが、噴火前に大地の揺れは一切感じなかった。穏やかな地獄谷の風景だった。

 モニュメントを携帯のカメラに収めた。その直後だったと思う。背後から、「噴火じゃないか、やばいよ」という男性の声が聞こえた。携帯から目を離し、前方を見ると、白いもくもくとしたものが目に入った。最初は積雲かな、と思った。真っ白で、ソフトクリームみたいな感じだった。あまりにきれいなので、恐怖感などなく、写真を撮っておこうと、携帯を再び覗き込み、真っ白いものを捉えようとした。が、もう真っ白ではなかった。そのときだ。小石みたいなものがパラパラと自分の周りにも落ちてきた。やっと、気付いた。自分は、今、非常に危険な場所にいるのだ(後日、噴火の瞬間の八丁ダルミを遠望した写真を見たが、噴火口に一番近いところに私の姿があった)。

 生存者の証言によると、最初の爆発の音を聞いた人、聞いていない人、さまざまだ。私は聞いていない。音は、周囲の地形や大気の密度の粗密によって複雑な伝搬をするから、場所によって聞こえ方が随分と違う。近くでも聞こえる人と聞こえない人がいても不思議ではない。また、噴火の回数については、大きなものが3回または2回と、これもさまざまで、剣が峰で被災した人は、多くの人が3回だと答え、3回目が一番ひどく、冷蔵庫ほどの大きな噴石が飛んできたという。私のいた八丁ダルミでは、最初の2回が同じ程度に大きく、3回目はすぐに収まったため、2回と答える人が多かった。これは、噴火が、南(八丁ダルミ)から北(剣が峰)に向かって順番に発生していったためだろう。また、噴煙が襲うまでの時間については、八丁ダルミでは噴火後数十秒だったが、剣が峰では3分ほどたってからだという。また、噴石については、剣が峰の方が大きい噴石が飛散したようだ。八丁ダルミでは、噴石が落下する前に噴煙と大量の火山灰に覆われてしまったから、大きな噴石を見た人はいないはずだ。

 この記録は、八丁ダルミでの私の体験談であり、他の場所での体験記録とは異なる内容になっているかもしれない。が、今は、当時、自分に起こったことを記憶の底から思い起こし、出来るだけ忠実に記したいと思う。

 私は、携帯のシャッターを切ると、すぐに、後の東側斜面の方へ駆け出した。一面のガレ場で、隠れる場所がない。前方に少し大きな石があったので、その背後に隠れた。私の上半身しか隠せない石だが、しかたない。私はうつ伏せになり、顔を少し石の方に向け、じっとした。すると、猛烈な火山灰が押し寄せて来て、周囲はあっという間に闇に包まれた。私は、まだ余裕があったのか、撮った写真を保存していないことに気づき、手にしていた携帯を握り直し、「保存」ボタンを押して、ヤッケのポケットにしまった。

 が、余裕はここまでで、大量の火山灰のため息ができなくなった。硫黄の強い匂いもしたが、それよりも呼吸ができないことが深刻だった。すぐに頭に巻いていたタオルを外し、口にあてた。が、タオルの目が粗いのか、タオルを素通りして容赦なく火山灰が入り込み、口の中に侵入してきた。あきらめて、タオルを投げ捨てた。火山灰が口の中に入るのを防ぐには息をしないことだと思い、息を止めてみた。が、20秒ほどしか続けられなかった。再び息をすると、大量の火山灰が口の中に入り込み、大きく咳き込んだ。もうだめだ。観念した。「なあんだ、俺って、こんなところで死ぬんだ。死ぬって、あっけないなあ」と思った。家族の姿や、過去の記憶など一切浮かばない。単純に死に行くだけなのだ。死は間近なのに、頭の中は澄み切っていた。これが諦観というものなのかもしれない。

 が、頭は澄み切っていても、体は苦しんでいる。とにかく息ができない。大量の火山灰が口から入り込み、どうしようもない。口を両手で覆ってもすぐに息苦しくなって、大きく吸い込んでしまう。そして咳き込む。もう数分この状態が続けば確実に窒息死する。観念した、そのときだ。口を覆っていた左手にヤッケの襟の部分が触れた。私は、左手でその襟の部分を口元に引き寄せ、口を覆って息をしてみた。火山灰を吸い込むことなく息ができた。私は、すぐに右側の襟も引き寄せて、両方の襟で顔の下半分を覆い、手でしっかり閉じて、息をした。呼吸ができた。でも、油断して手を緩めると、すき間からすぐに火山灰が入り込む。私は、両手できつく襟を口元に押さえ込む。すると、火山灰は防げるが呼吸はしづらくなる。だから、あまりきつくは押さえられない。少々火山灰を吸う覚悟で、少し緩めに覆うほかない。とにかく、呼吸が確保できたことで、少し望みが見えた。

が、その望みを熱風が打ち砕いた。うつ伏せになっている体を包み込むように熱気が襲ってきた。私自身はそれほど熱いとは感じなかったのだが、無事帰還後に背中にやけどをしているのが判明したほどだから、かなりの熱さだったようだ。ヤッケの襟で口元をふさいでいたため、直接に熱風を吸い込むことはなかった。熱風のあとには溶岩が流れて来るんじゃなかろうかという恐怖の方が勝っていたので、熱さなんて感じなかったのだろう。

 この熱さはしばらくして引いた。その間も、大量の火山灰は容赦なく押し寄せてきて、どうにか維持している呼吸が徐々に苦しくなってきた。どうしても襟のすき間から火山灰が入り込み、息がしづらいのだ。私は、少し声を出して「南無不動大師浄円、南無不動大師浄円」と唱えてみた。じっと息をこらしているよりも、声を出した方が楽だった。私は自分の念仏を続けた。

すると、しばらくして、火山灰の来襲が収まり、周囲が明るくなってきた。噴石もなくなった。周囲を見渡すと一面火山灰に覆われている。実は、うつ伏せになってからは、息が苦しくて、噴石のことなどまったく気にしていなかったのだが、噴石の落下は続いていたらしい。無事帰還後、背中に背負ったリュックのポケットの中にしまっていたガイドブックがズタズタに引き裂かれているのが分かったぐらいだから、かなりの落石の衝撃が私を襲っていたのだと思われる。しかし、噴石の落下する音は、火山灰が周囲を覆ってからは、それに吸収されてあまり聞こえなかった。

 周りで何人かの人の声がした。「大丈夫か」「死ぬかと思ったわ」という若い男女の交わす言葉が聞こえた。若い二人は、体を起こして、互いに無事を確認し合っているようだった。が、私はまだじっとしていた方がいいのじゃないか、まだ噴火は収まっていないかもしれない、と思った。すると、「リョウタ、リョウタ」と子供の名前を連呼する中年の男性の声がした。が、この問いかけに対する答えはなかった。

 明るくなって、30秒ほどたっただろうか、再び大量の火山灰が押し寄せてきた。漆黒の闇となり、再び火山灰を吸い込んで息が苦しくなる。あわてて、口元のヤッケの襟をしっかりと押さえる。噴石の音はあまり聞こえないが、地響きのような大地が唸るような音がする。大地が大きく揺れるのも、うつ伏せになった体で何度か感じた。硫黄の匂いも相変わらず強い。そして、再びあの熱風だ。身体が熱くなってくる。熱いサウナに入ったような感じだ。耐えられない熱さではないが、今度こそ、本当に溶岩が流れて来るのかもしれないと、恐怖におののく。

 そして、徐々に息苦しくなってきた。やはり、ヤッケの襟のすき間から火山灰が口の中に入り込む。大きく息をすればするほど、火山灰は多量に入り込む。だから、少々息苦しくても、小さく吸って大きく吐く以外ないのだ。これを繰り返していると、流入する酸素の量が少ないから、どんどん息苦しくなってくる。また、念仏を唱えてみる。「南無不動大師浄円、南無不動大師浄円・・・」声を出すと、苦しさがまぎれる。

何か光った。雷鳴も聞こえた。そして、冷たい雨がポツリポツリ落ちてきた。熱風で体が熱くなっていたので、冷たい雨が心地よい。ひょっとしたら助かるかもしれないという気になった。雷光や雷鳴や雨は火山現象でなく、なじみの気象現象だからだろうか。とにかく、ほっとした。しばらくすると、火山灰の来襲が収まった。再び周りが明るくなった。周りを見渡すと、積もった火山灰がだいぶ深くなっている。私の腰から下はまったく火山灰に覆われている。周囲は30~40センチほどの厚さに積もっているようだ。

 二回目の噴火は収まったのだが、今回は周りで人の話し声は聞こえない。しばらくして、誰かが剣が峰の方向からこちらに歩いてきた。男女二人ずれのようだ。「あ、岩があるわ、ここに隠れましょう」と女性が言った。石の背後に隠れていた私に気づいて、「大丈夫ですか」と、声をかけてくれた。私は、そのときの体勢を崩したくなかったので、伏せたまま「大丈夫です」と答えた。すると、またもや火山灰と噴石が来襲した。二人は、私をはさむように、石の前後に身を伏せた。この三回目の噴火は前の二回ほどひどくはなく、しばらくして収まった。

 三回目の噴火が収まった後も、石の周りの三人はじっとして伏せたまま動かなかった。私は、なんとなく、四回目の噴火は来ないような気がした。そして、噴火後、初めて体を起し、二人に話しかけた。「王滝山頂の方に避難しませんか。」男女二人も身を起し、互いに見つめ合った。大量の火山灰をかぶっているから、顔面は厚くおしろいを塗ったようになって、目だけが丸く見えている。声からすると、二人は私と年は変わらなそうだ。二人は、私の意見を受け入れてくれた。それで、三人で王滝山頂目指して歩くことになった。

 私は立ち上がり、周りを見渡した。何と表現したらいいのだろう。灰褐色の廃墟。気味の悪いほどの静寂。これが三途の川なのだろうか。アポロ11号が映した月の表面にも似ている。噴煙のすき間からわずかに空の明りが漏れているので、暗闇ではない。ぼんやりと照らし出された灰色の世界だ。

 男性が先頭を歩き、女性がそれに続き、私は最後尾を歩いた。灰色の火山灰の上を、まるで新雪の上をラッセルするように、ゆっくり歩いた。また、噴火が起れば、無防備な三人はひとたまりもないだろう。おそらく、王滝山頂までは5分とかからずに着いたのだろうが、非常に長い数分間だった。王滝山頂に着くと、男女二人はすぐに山荘の中に入って行った。が、私は躊躇した。これから火砕流や溶岩流が襲えば、木で出来た山荘なんてひとたまりもないだろう。それにくらべ、山頂は周りが石垣で囲まれているから、山頂にとどまった方が安全かもしれないと考えたのだ。が、どこもかしこも吹きさらしである。いくら石垣で囲ってあっても、大噴火があればひとたまりもない。私は、やはり山荘に入ることにした。

 山荘には40人ぐらいの人たちが黄色いヘルメットをかぶって、押し黙って座っていた。皆、今は少し落ち着いているが、これからどうなるのか心配なのだ。私が窓際のスペースに座ると、小屋の人がやってきて、ヘルメットとペットボトルを渡してくれた。そして、「窓際はガラスが割れて危険ですから、少し部屋の中の方に寄って下さい」と親切にアドバイスをしてくれた。

しばらくして、小屋の人が、「お医者さんはいらっしゃいませんか、お医者さんがおられたら下の階に来てもらえませんか」と呼びかけた。が、誰も返事をしない。お医者さんはいないようだ。それから、下の方から悲鳴が聞こえた。「息をしてないわ、この子」と言っている。階下の事だから、どんな状況になっているのか分からない。

 後日、王滝頂上山荘の当時の様子を撮影した写真を見せてもらった。それには、手にペットボトルをもち、黄色いヘルメットをかぶり、うつろな目で座っている自分の姿が写っていた。写真が撮られた時刻は12時29分である。おそらく、私が王滝頂上山荘に着いたのが12時25分頃だから、私たち三人が八丁ダルミを脱出したのは12時20分頃ということになる。噴火の時刻が11時52分だから、30分近く私は八丁ダルミの石の背後に伏せていたことになる。

 山荘の外に出て、ペットボトルで口の中をゆすごうとしたが、水を含んでも、口から出るのはゼリー状になった粘っこい火山灰だけだったので、嫌気がして、やめた。私は下山することにした。山荘に残るも下山するも、どちらも危険である。が、何もしないよりは行動した方が悔いは残らない。韓国のセウォル号の修学旅行生のように、傾く船の中で、じっとして待つことだけはしたくなかった。私は下山する方を選択した。足元は一面火山灰に覆われている。が、数時間前に通った道である。帰路は分かる。周りに人のいない山道をひたすら歩いた。

 登るときに叩いた鐘のある中央不動の横を通過したころ、ようやく灰の深さが浅くなり、樹木の緑も見え始めた。八合目石室に着き、中を覗くと、8名ほどの登山者が座って避難していた。私が下山途中で見かけたのはこの人たちだけである。私に席を開けてくれる人がいたので、そこに腰かけたが、やはり、下山を急ごうと思った。

 私は、再びひとりで歩き始めた。しばらく歩くと、周りに火山灰がまったくなくなり、眼下に遥拝所や田の原の駐車場も見えた。危機は脱出した。もう安全だと思った。

 14時頃、田の原登山口に着いた。鳥居のところに立っていた人にヘルメットを返す。駐車場にはパトカーと消防車が数台待機していた。私は、消防隊員らしき人に、「火山灰を大量に吸い込んだので病院へ搬送してもらえないか」とお願いした。が、その人は、「まだこれから重症の方がいらっしゃるかもしれないので、動けるようだったら自分で行ってもらえませんか」と、やんわり断られた。自分にとっては、大量の火山灰を吸った不安が大きかったのだが、これはとりあえず命に関わることではない。当然だな、と納得した。

11時52分(噴火直後)  まず、トイレで火山灰をかぶった頭と顔を洗った。それから、村営バスを待つことにした。しばらく駐車場の端の方で坐り込んでいると女性から声をかけられた。住所と氏名を聞かれたのでそれに答えた。そして、私が田の原登山口に着いて2時間近くたったころ、ようやく、山頂付近にいた登山者たちが鳥居に到着し始めた。




御嶽山の噴火した日・その後


【2014年】

9月27日

11時52分、御嶽山噴火。12時36分、気象庁が御嶽山の噴火警戒レベルを1から3に引き上げる。八丁ダルミで噴火に遭遇した私は、14時頃田の原登山口に下山。夕方ふもとの木曽病院で診察を受ける。私の番号は2番で、まだ下山者は少ない。診察を終え、玄関前で信濃毎日新聞社、NHK等の取材を受ける。22時頃名古屋市内の自宅に帰りつく。


9月28日

朝から、山頂付近に取り残された登山者の救助活動が始まる。救助活動が進むにつれ、多数の心肺停止者の情報が入る。


9月30日

噴火の翌日から粘っこい痰が出るようになり、微熱もあったので近くの内科を受診。大量の火山灰を吸い込んだことによる塵肺とのこと。


10月07日

木曽病院から封書が届く。私の診療費が災害救助法によって国負担になったとのこと。


10月16日

被害者捜索終了。死者57名、行方不明者6名。1991年の雲仙普賢岳の火砕流による被害者数43人を超える戦後最悪の火山災害となった。


11月

隣家のトタン屋根に落ちる銀杏の実の音で、ハッとする。あのとき、パラパラと落下してきた噴石の音にそっくりである。朝、目玉焼きの黄身を焦がしてしまったときに嗅いだ匂い、あのとき忍び寄ってきた硫黄臭にそっくりである。夜寝ているときに地震があり、ハッとして、恐怖に陥る。あのとき、ガレ場に伏していたときに体に感じた大地の鳴動とそっくりだ。八丁ダルミのあのときの恐怖を、私の全身が記憶しているのである。

噴火で九死に一生を得た私は、一度死んで、また別の命をもらったようで、噴火後の一カ月ばかりは、みょうに高揚した気分だった。奈良に住む友人や福岡に住む息子がわざわざやって来て、無事の帰還を祝福してくれた。私は、なにか英雄にでも祭り上げられたような気分であった。しかし、どこかしっくり来ない引っ掛かりがあった。それは、救援活動をしないでひとりだけ逃げ出したことに対する後ろめたさなのだろう。こういった感情を、医学用語で「サバイバーズ・ギルト」と呼ぶらしい。まだ噴火が終焉したのかどうかも分からず、自分の命を守ることさえ困難な状況の中で、どうして他人の救助などできるのか、と自分を納得させていたのだが、やはり、この罪悪感からは抜け出せない。


【2015年】

4月

御嶽山噴火による被災者家族が、慰霊、再発防止、防災活動を目的に「山びこの会」を発足させた。


06月26日

気象庁が御嶽山の噴火警戒レベルを3から2へ引き下げる。


07月24日

御嶽山の行方不明者の捜索が再開され、8月7日に終了。一人の行方不明者が発見されただけで、依然として5人は行方不明のまま。


【2016年】

02月06日

噴火のとき八丁ダルミで私といっしょに被災したN氏と大曽根の喫茶店で会う。私のブログにN氏とRYOUTA君(当時19歳、八丁ダルミで行方不明)のことが書いてあるのを知ったN氏が私にメールをくださり、会うことになったのである。午後1時に会い、4時間ほど話す。

甥のRYOUTA君があの日N氏の前を走っていった先に約10メートル間隔でタオル、ストック、リュックが相次いで発見されたが、捜索は去年で打ち切られた。長野県の予算や捜索隊人員の確保の関係からだという。行方不明者5人の内、愛知県3名、三重県1名、北海道1名で、長野県が一人も含まれていないのも捜査打ち切りに関係しているらしい。八丁ダルミへの入山の許可はシェルターなどの避難設備を整えてからじゃないと難しいのではないか、そして、いざ入山できても、国定公園なので、スコップで掘り起こすことは厳禁だそうで、個人での捜索活動もできないと、おっしゃる。無念な気持ちが伝わってくる。

喫茶店で互いの写真を見せ合った。N氏の見せてくれたどの写真にも私は写っていなかった。二人はごく近くにいたのに、不思議だ。私があの噴火のときに八丁ダルミにいた証拠がないのである。

N氏は浄土真宗の熱心な信者で、あの日もお守りのペンダントを胸に下げて、一心に阿弥陀様に祈ったという。私が「南無不動大師浄円」と唱えたのに似ている。N氏も私と同様、大量の火山灰を吸い込み、3日間は痰に茶色いものが混じっていた。すぐに噴煙に包まれて真っ暗になったから、噴石の恐怖はまったく感じなかったという。私の印象と全く同じだ。やはり、すぐに噴煙に包まれた八丁ダルミと噴石の落下が多数目撃されたという剣ケ峰では状況が全く違っていたようだ。

RYOUTA君には姉二人と妹がいて、姉の一人が噴火後ツイッターで情報提供を呼びかけたが、「自己責任だ」といった誹謗中傷や悪ふざけの情報が多く、すぐに閉鎖せざるを得なかったという。


【2017年】

08月21日

気象庁が御嶽山の噴火警戒レベルを2から1に引き下げるも、頂上付近への立ち入り規制は依然継続。


09月21日

「山びこの会」がドローンによる捜査を実施。ドローンによる再捜索は昨年2016年の9月に続き2回目。行方不明者の発見には至らず。


09月27日

頂上の剣ヶ峰への登山が9月26日から10月3日までの8日間だけ可能となる。私は27日午後から休みを取り、御嶽山頂上へ登ることにした。ロープウェイの終着駅である飯森高原駅から歩き始める。15時、御嶽社にお参りして、山道に入る。一ノ又行者旅館を経由し、およそ1時間、16時に女人堂に着く。途中、下山中のN氏にばったり会った。あのツイッターを発信した姪御さんが一緒だ。剣ヶ峰で献花した帰りだという。あまりの懐かしさ(不思議な感情だ!)に、何度も手を握り合う。

女人堂の小屋では、あの日あの時山頂付近におられたお二方と知り合いになった。剣ヶ峰で被災されたMさんと頂上付近の山小屋責任者であったSさんである。

Mさんは、剣ヶ峰頂上にいて昼食の準備をしていた時に噴火に遭い、すぐにリュックを置いたまま、同僚とともに山頂直下の岩陰に避難された。が、火山灰と噴石が凄まじく、自分は両腕と後頭部に噴石の直撃を受け、同僚はすでに意識がなかった。火山灰の猛威からは帽子を口に当ててかろうじて呼吸を確保された。雷によって感電されたともいう。一時間後、その場を脱出して山頂小屋に駆け降りられた。小屋の中では、右肘の出血がひどく、たまたま小屋にいた看護師に布で簡単な止血をしてもらった。しばらくして、全員山小屋を出て下山することになった。Mさんは重症ではあるが、歩行は可能なので皆と一緒に降りられた。途中、覚明堂で休憩されたが、その時、Sさんにいろいろ助けてもらったという。それから、再び歩いて下山されたのだが、麓のロープウェイ駐車場に着く頃には、出血のため意識がもうろうとし、人に抱えられていたそうだ。駐車場からは、すぐに救急車で木曽病院に運ばれた。後頭部は陥没しているが命に関わるものではなく、左手首は腕時計が緩衝材となり骨折だけで済んだ。が、右肘は複雑に粉砕されて出血もひどく、木曽病院では処置ができず、別の病院に搬送された。搬送先のICUで、深夜12時から右肘の緊急オペとなった。傷口の火山灰を排除するのに時間がかかり、しかも粉砕された骨片を繋ぎ合わせるのはジグゾーパズルを組み立てるようだったと、のちに執刀医が語ったそうだ。長時間の手術の末、どうにかビス等で骨片をつなぎとめることができ無事終了した。が、感染症を発症しており、熱が下がらない。再び病院を変わり、感染症の熱に耐えながらもリハビリをされた。約1ヶ月後、熱が下がったとき、埋め込まれていたビスが緩んで皮膚まで盛り上がってきたため、再度の手術となった。今度は人工骨を埋め込まれたそうだ。

Mさんは今、右腕に多少の不便さはあるが、脚の方は問題ないので山登りを再開されている。同僚の死は病院のテレビで知ったとのこと。後日、遺族にお会いし、話を聞いたら、遺体安置所から自宅へ運ぶ霊柩車代を県から請求されたということで憤慨されていたという。行政には規則などの縛りがあるのかもしれないが、遺族の気持ちを逆なでするような行為である。

山小屋責任者のSさんは、あの日、登山者を全員下山させたのち、まだ避難してくる登山者もいるかもしれないということで、行政からの下山指示に逆らい、最後まで山小屋に残っておられた。またいつ噴火するかもわからないあの状況で、よく山小屋に残る決断をされたものと、頭がさがる。Sさんは、御嶽教の行者でもあり、今回で137度目の御嶽登山だそうだ。覚明堂が廃屋になったとき、数名の仲間とともにおよそ2年の歳月をかけて建て直された。が、再建後3年目にあの噴火に見舞われることになる。噴石による被害はなかったものの、大量の火山灰によって壊滅状態になってしまった。結局、オーナーの判断で、再度の再建は断念し、廃屋となることが決まった。

Sさんは、県の行った行方不明者の捜索活動に不満を抱いておられる。噴火2年目の捜索活動はわずか数時間で終わった。風が強くてヘリで救助隊を運べないのが理由の一つになっていたが、歩いて登れば問題がない、とSさんはおっしゃる。さらに、地元の災害救助のプロや山小屋関係者への捜索協力要請が一切なかったという。自分らが捜索に加わればもっと的確な捜索活動が行えたはずだと、無念至極の様子。

Mさん、Sさんと、消灯時間まで、話は尽きなかった。翌28日、私は剣ヶ峰に登った。頂上直下には真新しい慰霊碑と3つのシェルターが作られていた。頂上から八丁ダルミを見下ろした。八丁ダルミは依然として立ち入り禁止である。八丁ダルミの右側の谷に噴火口があり、まだ白煙を上げていた。


【2019年】

04月07日

名古屋市内にある市民ギャラリー栄で開かれた「山びこの会」主催の御嶽山噴火災害写真展を見に行く。事務局代表、RYOUTA君の両親、N氏、AKARIちゃん(当時11歳、剣ヶ峰からの下山中、二の池付近で力尽きた)の両親らと話す。

会場に1枚の大きな写真があった。噴火した11時52分に、王滝山頂から撮られた八丁ダルミの遠景写真である。左の地獄谷の方からすさまじい噴煙がまごころの塔の間近まで迫っている。まごころの塔の横に人らしきものが写っていた。写真では小さくてシミのようにしか見えないが、どうも人間らしい。RYOUTA君のお母さんが、このシミみたいなものがあなたではないか、とおっしゃった。私は、あのとき自分が写した噴煙の写真を取り出して較べてみた。噴煙の手前に石の段があり、その横にロープが張ってある。確かに、この石段はまごころの塔である。私は噴煙を見た時に、まだ、まごころの塔のところにいたのである。

この大きな写真の横には、王滝頂上山荘の中に避難されている方々が写っている1枚の写真が展示されていた。この写真の前で、N氏が何人かの人と話しておられた。私もその話の輪に入った。そして、驚いた。この写真に写っている5人が、今、この写真の前にいるのだ。写真中央は顔の灰を洗い流したばかりのN氏、その手前左に白い帽子をかぶった女性が立ち、奥の左側に黄色いヘルメットをかぶった男性と女性、右側に火山灰で能面のような顔となった私が座っている。ヘルメットをかぶった男性と女性は、王滝頂上山荘から奥の院に向かう途中噴火にあって引き返してきた親子で、白い帽子の女性はAKARIちゃんのお母さんだった。偶然、この写真に写っている5人が、この写真の前で4年半ぶりに出会ったのである。事務局代表が私たち5人をこの写真の前で写真を撮ってくださった。写真に納まりながら、私は、よくわからない複雑な気持ちになった。

遺族の方の中でも、あの噴火を人災ととらえる方もあるし、天災として仕方ないと考える方もおられると聞いた。それぞれの方がそれぞれに異なる思いをかかえていらっしゃる。やはり、一人一人が何らかの情報を発信しなければ、なかなか真実は伝わらない。今のネット社会では、ちょっと変なことをつぶやいてしまうと、大バッシングを受けてしまう。だから、情報を発信することは、大変な勇気がいるし、強い気持ちが必要だ。そういうことを考えると、「山びこの会」のみなさんのような活動は貴重である。


【2020年】

08月29日

八丁ダルミで行方不明のRYOUTA君の家族による独自捜索が行われた。午前9時15分から約4時間の捜索だったが、残念ながらRYOUTA君の発見には至らなかった。私は、事前に、N氏に捜索協力を申し出たのだが、当局の判断から、安全上の理由で私の参加は認められなかった。


09月27日

噴火からまる6年。御嶽山では噴煙が上がっている。私がいた八丁ダルミにはまだ入れない。死者58人。依然5名が行方不明のままである。

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