荒井由実の歌に「ルージュの伝言」というのがあったが、次のことばは、仏教僧・龍樹が書いた『中論』という書物の中にある伝言である。
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宇宙においては何ものも消滅することなく、何ものも新たに生ずることなく、何ものも終わりがなく、何ものも常住することなく、何ものもそれ自身と同一であることなく、何ものもそれ自身から分かれた別のものであることなく、何ものも来ることもなく、何ものも去ることもない
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ナーガールジュナこと漢名・龍樹は、2世紀に生まれたインドの高僧で、大乗仏教の始祖である。『中論』以外にも多くの著作を残し、次の『大乗についての二十詩句篇』も彼の著作とされている。
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三宝(仏・法・僧)を礼拝したてまつる。
1
言葉では言い表せない真理を、慈悲をもって言葉で説き示し、その思慮は執着を離れて不思議な威力をもつ仏さまを礼拝したてまつる。
2
それ自体では生起することもなく、真実には静まることもなく、虚空のようであるという、仏さまも生きとし生けるものも、このただ一つの特質をもっている。
3
諸々の形成する力によってつくられたものは、この世においても、かの世においても、生起したのではなく、それらは因縁によって生じたものであり、それらは全てその本体については空である。
4
一切のものはそれ自体について言えば影像にひとしいと考えられ、それらは清浄であり、寂静であり、不二であり、平等であり、真如(=あるがまま)である。
5
愚かな凡夫は、真実には実在しない自己について自己であると妄想分別して、苦や楽や通達の知恵、これら全てが真実に存在するとみなしている。
6
彼らには輪廻である六道(=迷いの六種の道:天界道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)、最高の楽しみ、地獄のような苦しみ、また老いや病も生じるであろう。
7
彼らは虚しい妄想を起こして、地獄などで煮られ、まさに自分の作った過失によって焼かれるのである、竹が火に焼かれるように。
8
幻のようなものである人々は、もろもろの対象を楽しみ、縁起(=依存関係によって生起するもの)のある幻の道を歩み行く。
9
絵師が自ら夜叉のいとも恐ろしい姿を描いておきながら、それに恐れおののくように、賢者ならざる人は輪廻においてそのように恐れおののく。
10
愚者が自らぬかるみを作っておいてその中に落ち込むように、人々は脱し難い虚しい妄想のぬかるみのうちに沈没しているのである。
11
無なるものを存在とみなして、人々は苦痛の感覚を受け、またもろもろの虚妄なる対象が疑いの毒をもって人々を苦しめる。
12
そこで、慈悲をしっかりと保っている仏さまは、頼りとするものをもたない人々を見て、その人々のためを思って、人々を正しい悟りに向かって誘う。
13
人々もまた悟りのための糧を集めたならば、無上の智恵を体得して、妄想の網から解放されて、人々の親族である仏となるであろう。
14
真理の意義を見る人々は、世界は不生であり、生起せざるものであるから、空であって、始めと中間と終わりを離れていると観じる。
15
それゆえに、自己の輪廻を見もしないし、自己の涅槃(=煩悩から解放された悟りの境地)も見ず、全ては汚れなく、変化することなく、始めと中間と終わりにわたって清浄である、と見る。
16
すでに目覚めた人は、夢の中で経験した対象をもはや見ることがなく、迷妄の眠りから目覚めた人は、もはや輪廻を見ることがない。
17
幻術師が幻をつくり出して、次いで消し去ったときには、何ものも存在していない、それが事物の本性である。
18
一切のものは唯だ心より成り、幻のすがたのように出現し、その心にもとづいて善と悪との業が起こり、それにもとづいて善と悪との生存が起こる。
19
人々が世界を妄想しているごとくには、人々自身は生起していない。この生起というのは妄想であり、外界の対象である事物は存在しない。
20
愚かな凡夫は、迷妄の闇に覆われて、真実にはそれ自体のない事物について常住であるとか、自己であるとか、快楽であるとかいう想いを起こし、この輪廻の生存の海のうちにさまよう。
結びの詩句
大乗の船に乗らないならば、誰が、妄想の水に満ちている輪廻の広漠たる大海をわたって、彼岸に達しうるであろうか。
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