道元
- yokando2
- 2023年9月7日
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春は花夏はうつせみ秋は露あはれはかなき冬の雪かな
これは、公家で歌人の久我通親(1149-1202年)が高倉院崩御の翌年に、それを悼んで詠んだ歌である。後年、その子(孫という説もあり)道元が「本来の面目」として、さとりの瞬間を次の一首に詠んでいる。
春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえてすずしかりけり
通親の花は桜で、道元の花は梅である。桜は咲いて絶頂ではかなく散っていく無常の花。梅は花を開くとおのずから実を結び、花にも、鳥にも、月にも、雪にも自在に変化する仏のはたらきをなす、と道元は言っている。
道元(1200—1253年)は5年間中国の南宋に滞在しているが、それまでの留学僧が仏具、仏画、文献などの収集に奔走したのとは違い、ひたすら禅の修行に勤め、「眼横鼻直(げんのうびじょく)」、すなわち、眼は横に鼻はまっすぐについているという、人生のありのままのすがた、本来の面目を尊ぶ、生きた仏法を持ち帰った。日本に帰ってからの道元は、中国で体得したこの真理を言葉に移し変えていく作業に没頭する。そして出来上がったのが、正しい仏法がぎっしり詰まっているという意味の「正法眼蔵」である。
「正法眼蔵」は、漢文の洪水の中に和文が島のように混在する難解な書物として有名であるが、この書にチャレンジした先達は口をそろえて言う。この書は、難解と思われている仏教の真理を人々に分かるように懇切丁寧に解説した書であると。従って、「正法眼蔵」の対極にあるものは、問う人も答える人もちんぷんかんぷんの、いわゆる禅問答ということになる。
「悟り」とは「ああ、これか」と思う瞬間であって、悟ったという確信はあるものの、その悟りの内容を他者に説明できるような理論や表現はまだ出来ていない状態である。お釈迦様も菩提樹の下で悟りを開いてから、鹿野苑で最初の説法を説くまでの数週間はその悟りの内容を整理して表現するために思索を続けられたのである。
道元も、28歳のとき留学中の中国寧波の天童山で解脱の喜びを味わうのであるが、帰国後は日々参禅しながら、その悟りを人びとに理解してもらうために、1253年、53歳で亡くなるまで20年間、生涯をかけてその悟りの内容を噛み砕いて記載し続けた。それが「正法眼蔵」なのである。
禅宗の初祖、摩訶迦葉は、鬢髪が白くなってから釈迦に弟子入りし、ひたすら座禅をしたという。道元は、その第51祖になる。山や谷で座禅に専念し、自然と同化し、自分が悟るよりも先に、あらゆる生命あるものを救うことを本願とした。春は花・・・の歌以外にも多くの歌を詠んでいる。
濁りなき心の水にすむ月は波もくだけて光とぞなる
草の庵に起きてもねても祈ること我より先に人をわたさむ
道元の弟子・孤雲懐奘が編集した『正法眼蔵随聞記』の中には、道元が述べた言葉で、私が感銘を受けた個所がいくつかある。以下に紹介する。
・百尺の竿頭に上りて手足を放て一歩を進めよ。我が身心を一物も残さず放下して仏法の大海に廻向すべきなり。
・無常迅速なり。生死事大なり。学道の人ただ明日を期することなかれ。今日今時ばかり仏法に随いて行じゆくべきなり。
・我見を離るべし。ただ道を悟らんとのみ思いて、余事あるべからず。
・真実の志を発して随分に参学する人、得ずということなきなり。高くとも射つべく深くとも釣りぬべし。
・学道は先づすべからく貧を学ぶべし。名をすて利をすて、一切へつらうことなく、万事をなげすつれば、必ずよき道人となるなり。
・我が身愚鈍なればとて卑下することなかれ。今生に発心せずんば何の時を待ってか行道すべきや。今強いて修せば必ずしも道を得べきなり。
・学道の最要は坐禅これ第一なり。只管打坐して他を管ずることなかれ。もし死ぬべくんばいよいよ坐禅すべし。学道勤労して他事を忘るれば、病も起こるまじき。
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