空海
- yokando2
- 2023年11月24日
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最澄と空海を比較すると、圧倒的に空海の知名度が高く、弘法大師は知っていても伝教大師は知らないという人が多い。しかし、後世に与えた影響は圧倒的に最澄の方が上で、彼の根本道場のある比叡山からは法然、栄西、親鸞、道元、日蓮などが輩出し、数多くの新しい宗教を打ち立てている。
最澄と空海の性格を比較すると、最澄は純真実直で水墨画的、空海は自由闊達で極彩色的といったイメージがあり、どちらかというと、空海は高慢ちきな感じがする。最澄が「理趣釈経」の借用を7歳年下の空海に申し出たときに、空海が以下のような内容の手紙を出して断ったのが、なんとも生意気だ。
「本ばかり読んでいてはだめです。密教は修業です。あなたが密教の道理を知ろうと思うのなら、密教僧として行を修めなさい。そうすれば密教を教えましょう。しかし、本を借りようとしてもだめです。」
空海(774-835年)は山好きで、遣唐使の留学僧となる前の7年間ほどは各地の山に籠って修業していたようで、また、最澄の死後、朝廷にもてはやされたにもかかわらず、晩年は、喧噪の都を離れて清閑な高野山に籠ったのであるから、そんなに悪い性格とも思えない。ひと昔前、向島の図書館から空海のDVDを借りてきて鑑賞したことがある。「空海への道 第一、第二、第三回(NHKエンタープライズ)」の3本である。その第三回に登場した古井由吉氏は、空海は本性、山中修行者で、ときたま里に下りてきていたのだと、喝破しておられた。空海の道は役小角が通った道だった、という訳である。
聖徳太子のころ、仏教を取り入れるか否かで、物部氏と蘇我氏が争い、最終的に蘇我氏が勝ち、仏教が正式に国教として認められた。当時、経典も仏像も輸入されていたが、仏教を選択する上での決め手となったのは、本来の仏教の教えにはない呪術による除災、招福の神通力だったようである。この呪術に優れていたのが密教で、平安の初めの空海や最澄、円仁、円珍も密教を教えの基本に据え、思想的にも高めていった。浄土の思想や禅の修行が盛んになったのは、それ以後のことである。
密教の経典のひとつである「大日経」の住心品では、密教の立場を3つに要約している。
① 菩提心(仏と人間が一体化したイメージ)を因とする
② 大悲(仏が衆生を救わんとする心)を根とする
③ 方便(社会的な実践活動)を究竟とする
自我を中心とした対立的な世界観から、宇宙的な視座をもった全体的、相互的世界観への180度の転換を行い、多種多様な価値観を包含して一つの統一体を作り上げ、すべての存在に生命を認め、自己中心的な欲望を否定し、それがもつ本来的な生命力を生かしてより大きな普遍的な欲望にまで育て上げる、これが日本の密教の思想、空海の思想なのである。
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